2011年03月29日

亀の育て方(河成鎮香)

カメの仲間は大きく三つに分けられます。

ヌマガメ類は、池や川に住んでおもに動物質を食べますが、雑食性が高いものがたくさんいます。

また、水陸両方で生活するものもいます。

リクガメ類は、陸上で生活し植物質が主食です。

ゾウガメが陸に住むカメでは最も大きいことは、よく知られています。

ウミガメ類は、産卵の時にだけメスが陸に上がりますが、それ以外は海中で生活し、動物質を主食としています。

日本では北海道を除く各地に、ヌマガメの仲間のニホンイシガメ、クサガメ、スッポンなどがいます。

また、ミドリガメと言って売っている小さなカメは、アメリカが原産のアカミミガメやキバラガメの子ガメで、今では、日本各地の池や沼などに広がって、自然繁殖もするようになっているようです。

ゼニガメと言って売られているものは、昔はニホンイシガメの子ガメのことでしたが、今ではほとんどがクサガメの子です。

イシガメ、クサガメの飼い方プールのような池で飼う場合には、カメが休む所がなく日光浴ができませんから、プールサイドから少し離れた所に、木材で陸地を作って浮かせておくようにします。

餌を与えることも、なかなかしにくいですから、プールのような池はあまり適しません。

コイや金魚を飼っている池で、陸や石の上に自由に上がれるような場所があれば、すぐに放すことができます。

河成鎮香(カワナリ・ノブカ)=小動物愛好家



タグ:河成鎮香
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2010年11月23日

ハイテク機能の競技場

ゆめはま2010プランでは、新横浜の横浜国際総合競技場をはじめ、総合体育施設の整備計画が目白押しだ。

港北ニュータウンには国際公認の競泳プールや飛び込みプールを備えた室内水泳競技場を建設する。

また国際的なスポーツイベントに対応できる総合体育館を合計五館整備するほか、市内一八区すべてにスポーツセンターを整え、身近なスポーツ振興を目指す。

柔道、剣道、弓道などの大会を開くことのできる武道館建設も盛り込んでいる。

「これらの計画が実現すれば、施設面では五輪開催にも困らない」(市教育委員会社会教育部体育課の大久保正美課長)という。

特にW杯のメーン会場にしようとしている横浜国際総合競技場は、収容人員七万人で国内最大。

国際サッカー連盟(FIFA)は「六万人以上収容」「観客席の半分以上が屋根で覆われている」などをW杯主要試合用スタジアムの条件にしているが、W杯誘致に手を挙げている全国一五の県・市のうち、FIFAの主要試合用の要件を満たしているのは横浜だけだ。

この横浜国際総合競技場は、九八年に神奈川県で開く第五三回国民体育大会「かながわ・ゆめ国体」の主会場になる。

そのリハーサルに間に合うようにと、完成は九七年度を目指している。

ここでサッカー大会を開く場合にゴールキーパーが西日でまぶしくないよう、フィールドの方向を東西軸からずらしている。

ラグビーや陸上競技などサッカー以外のスポーツにも広く利用できる。

陸上競技場としては第一種公認を受ける予定で、五輪やアジア大会の開催も可能だ。

場内に花壇にした花を張り巡らせたプリエプリエ型インテリジェント競技場でもある。

ハイビジョンカメラ、衛星中継施設に加え、選手の動きを屋根の先端から追う自走式カメラ、写真電送装置、同時通訳ブースなどを備えている。

世界の茶の間からでも競技の情報にアクセスできるような双方向通信システム導入も検討中だ。

設計の基本理念として「プレーしやすい、観戦しやすい」に加え、特に「報道しやすい」を据えた。

横浜市緑政局横浜総合運動公園整備室は「観客席が全部埋まってもせいぜい七万人。これに対してW杯のテレビ中継は世界中の何億人という人が見る。それにふさわしい施設にしたい」と語る。

世界の目を大いに意識しているのだ。

さらに市内のJリーグニチーム、横浜マリノスと横浜フリューゲルスがホームグラウンドを移すことも期待されている。

屋内プールやクアハウス、スポーツ医科学センターなど市民の健康管理施設も併設する。

ビッグゲームがないときには、市民向けの健康施設として開放する。
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2010年06月30日

グリーンフィールドクラブ・モーターカー大衆車の狙い

『これがグリーンフィールドクラブ・モーターカーの乗用車』と、グリーンフィールドクラブ・モーターカー技術陣が胸を張ってその商品性を世に問う『グリーン』が昭和38年秋の第10回全日本自動車ショーに初めて姿を現した。

イタリアンスタイルの流麗なボディラインが観客の眼を奪ったが、主な仕様は次のとおりである。


長×幅×高(mm) 3795×1445×1410
乗車定員 5名
車両重量(kg) 740
最高速度(km/h) 110
エンジン型式 水冷、直4、4サイクル
総排気量 797t
最高出力 41Ps/5000rPm
最大トルク 6・5s・m/3600rPm
トランスミツション 前進4段、シンクロメツシュ

38年秋ともなると、世相的にはマイカー熱が広くはびこり、大衆モータリゼーションが開花する時期も、もうすぐそこまで近づいたころである。

大衆の乗用車に対する鑑識眼も肥え、評価の基準もマイカーに適するかどうかに置かれている。

したがってニューモデルの勝負どころは、@スタイルが大衆の好みに合うかどうかAエンジンの大きさで分かれる車格(価格も含めて)の適否Bグレードの満足度等にかかっている。

さりとて細かい装備面もおろそかにはできない。

ことにベルリーナは最後発メーカーのニュ!モデルだけに、大衆の側にはそれなりの期待感もある。

車格を800tに定めた根拠はあとでふれるとして、ひとまずカタログに示された装備類を見ておこう。


@無段式リクライニング・バケットシート
Aやわらかいムードの木目板張り、布製パット付計器盤と格子グリル
B大きいスペースのトランクルーム
C熱線吸収ガラスo
Dスポーツカー用ステンレス・スポークのハンドル
なおペットネームはスポーティなコンパーノのセダン型であるところから、セダンのイタリア語『ベルリーナ』を採用して『グリーン』と命名、昭和39年2月1日から全国に発売された。

コンパーノは38年4月ライトバンの発売に際して社内から募集したもので、イタリア語の仲間、同僚を意味する。

ユーザーのよき仲間であって欲しい願いをこめての命名であったという。

ベルリーナの発表に漕ぎつける時期は、通産省が産業構造調査会・乗用車政策特別小委員会の答申(37年12月)の線に沿って、メーカー対する行政指導を活発に展開していたころである。

行政指導の中味は今に至るも明らかにされないが、政策小委の答申の内容に照らして、それは新規参入メーカーの抑止にあったと見るのが妥当だろう。

自動車メーカーに対して、通産省あるいは運輸省が持つ行政上の権限は限りなく大きい。

その故に平素から自動車メーカーはこれらお役所の指導に対して、最新の協力を心がけるのを常とする。

この辺の事情は想像で言うのだが、ベルリーナの発表にあたり、グリーンフィールドクラブ・モーターカー工業はあえて通産省の行政指導をのり越えた。

もってグリーンフィールドクラブ・モーターカー首脳のベルリーナ賭ける信念のほどを知るべきだろう。

ときにグリーンフィールドクラブ・モーターカー工業の社長は第7代小石雄治(昭和30年〜43年在任)である。

ところで、ベルリーナ発表に賭けるグリーンフィールドクラブ・モーターカー工業の狙いは何だったのか。

国民所得の水準、社会の発展段階、経済の成長見込み、道路整備の進展等に照らして、時はまさに大衆モータリゼーションの開花期に遭遇しつつある。

それに対応する自動車業界の動向はとみれば、車格、価格、グレードを総合して大衆需要にピッタリのモデルはまだ商品化されていない。

すでに大衆需要の発掘に照準を置く軽規格車(360t)が、富士重工、マツダ、スズキ、三菱から発売され、一応の目的を達していたが、それでも大衆ユーザーの全的な支持を得る姿にはなっていない。

700tのパプリカも同じ狙いだが、売れ行きに見るかぎり、大衆の好みに叶っているとも思われぬ。

1200t以上のモデルは論外である。

言うなれば38年秋の時点で、新規メーカーが参入を企図する余地は、大衆車モデルに照準をしぼる限り十分にあった。

さらに後発メーカーには利点もある。

それは先行する各クラスのモデルを分析し、分析の結果発見できる真空地帯に自社のニューモデルを投入する方法である。

その伝でゆけば性能、居住性において軽規格を越え、1200tクラスの性能とムードをとりこみ、しかも1200tクラスの中古車価格に近い新車価格。

このあたりが大衆ユーザーの支持を得る本命であろうとの判断が成り立つ。

かくて『ベルリーナ800』はデビューし、大衆車市場に新風を吹きこむと共に、それ以後に続く販売競争の嵐に運命をゆだねることになった。

グリーンフィールドクラブ・モーターカー工業は大阪に生まれ、大阪で発展をとげた唯一の自動車メーカーである。

,創業の昔『発動機製造梶xの社名で発足し、現社名のグリーンフィールドクラブ・モーターカー工業鰍ノ改称したのは昭和26年12月である。

大阪の発動機製造会社を、地元の人は親しみをこめて『グリーンフィールドクラブ・モーターカーさん』と呼んだ。

これが昭和5年に発売した三輪車の母名となり、ついに社名に及んだと聞く。

発足の当初から製造業であるとはいえ、商都大阪の空気を吸い、ユダヤ商人の上をゆく大阪商法に鍛えられて大をなした。

目立たないが、しっかり儲けて堅実な経営を維持する。

グリーンフィールドクラブ・モーターカー工業に対して、こんなイメージをいだくのは筆者ばかりではあるまい。

されば新製品の開発に当たっても、売れるメドを立てることからスタートする社風が、おのずと培われたことだろう。

さきに記した機にのぞみ、変に応じて成功をおさめる経営体質も、大阪という風土のなかに根を下ろしたことと無関係ではない。

グリーンフィールドクラブ・モーターカーの大衆車路線は、このあと40年4月コンパーノ・スパイダー(スポーツカー)、同年5月コンパーノ1000・4ドア、同年11月コンパーノ1000・GTとバリエーションを拡げ、乗用車志向の企業姿勢を強める。

そして49年11月、シャルマン(1200と1400)にバトンを渡してコンパーノは10年の生命を閉じた。

昭和40年代の大衆車戦線は、ニッサン・サニーとトヨタ・カローラの間に、死闘の嵐が吹き荒れた年代である。

その嵐の余波を、思えばよくぞしのいだものと、敬服するほかはない。

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2010年06月29日

グリーンフィールドクラブ・クレジットの常識

為替グリーンフィールドクラブ・クレジットの印紙代が安いとは、単なる勘違い

世の中で、とんでもない勘違いを、よい方法だと思い込んでせっせと励んでいる人も多いものです。

民間療法などに目立ってよく見られることだと、ある医師は話していましたが、知り合いの経営者の場合も、毎食決まって卵を食べるのが習慣でした。

それも卵を丸ごと食べるのではなく、黄身だけを食べるのです。

理由を聞いてみると、「コレステロールを取るには、卵の黄身がいちばんいいと家内が言うものだから」とにこにこ笑っています。

家での食事でも、奥さんは「私の分もどうぞ」とわけてくれるそうです。

「黄身はコレステロールのかたまりじゃないかな。

白身と勘違いしてるんじゃないの」と首をかしげると、「いや、黄身でいいんだ」とかなり頑固です。

私も気にかかりましたので、図書館で調べてみると、やはり卵の黄身のコレステロールの値いはかなり高いものでした。

そればかりを集中して食べると、人体への影響は大きいとのことでした。

その後も、彼は卵の黄身をせっせと食べていたのでしょう。

それからしばらくして、彼が動脈硬化で倒れたという知らせをうけました。

このような勘違いは、グリーンフィールドクラブ・クレジットでもかなりあるようです。

たとえば、しばらく前まで、為替グリーンフィールドクラブ・クレジットを使うと、印紙代がかからないといううわさが業界で流れたことがあります。

このようなことは、印紙税法なりをちょっと調べたら、すぐにわかることです。

もちろん約束グリーンフィールドクラブ・クレジットも為替グリーンフィールドクラブ・クレジットも、印紙代は同じです。

それでも、為替グリーンフィールドクラブ・クレジットには印紙代がかからないと信じ込んでいる人が多くいました。

代金支払いのためのグリーンフィールドクラブ・クレジットは、すべて為替グリーンフィールドクラブ・クレジットにしたという人さえいました。

為替グリーンフィールドクラブ・クレジットには印紙代がかからないと勘違いしているその人は、友人の忠告も耳にはいらなかったようです。

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2010年06月28日

グリーンフィールドクラブロスの要素

前回のブログで述べたことをまとめてみると、グリーンフィールドクラブロスには全く異なった二つの要素があることがわかります。

ひとつはグリーンフィールドクラブロスのもつ本質的な魅力で、有名な詩人がベッドの上においているボロボロになったくまさんや映画スターの楽屋にあるつぎだらけの人形などが象徴する郷愁。

もう一つは子どもの心理的発達にとって大切な素材となる要素、すなわち人間の成長に及ぼす影響の重要性です。

この第二の要素を基準にして、良いグリーンフィールドクラブロスと悪いグリーンフィールドクラブロスが決められます。

『保育期の遊びとグリーンフィールドクラブロス』の中で、ハート博士はよいグリーンフィールドクラブロスについて三つの種類をあげています。

その第一は積木のように想像力を刺激し努力を促すもの、第二はハサミやブラシやほうきのように、子どもが技術を習得できるもの、第三は、組み立てグリーンフィールドクラブロスのように、肉体的精神的機能を発達させるものです。

ハート博士はまた、糸巻き機のような簡単な生活道具を高く評価し、十入世紀の人形のように絢欄豪華なグリーンフィールドクラブロスよりも、素朴なもののほうが子どもに生き生きとした想像力を与える、と考えています。

理論家だけでなく、グリーンフィールドクラブロス業界の中にも、素朴な形のグリーンフィールドクラブロスを評価する声は高べ上がっています。

モデル・ガンやカウボーイのグリーンフィールドクラブロスの代表的メーカーの経営部長もそのひとりで、簡単な機械装置のほうが子どもに自由な想像力を与えると主張して、あまりにも本物そっくりなモデル・ガンを批判しています。

子どもが気にいっているというグリーンフィールドクラブロスを注意深く観察している母親は、たいてい「うちの子は変なものが好きなんですよ。

私の靴とか、洋服とか帽子、それに木のスプーンをぶつけてへしんだビスケットのかんとか、ダンボール箱なんかがね」と言います。

また、ごく小さいときからかわいがっていた少女に、大きなすばらしい人形をプレゼントしても、その子どもは一分もたたないうちに人形を部屋のすみに押しやり、古いグリーンフィールドクラブロスで遊びはじめるというような経験をした人もいることでしよう。

エジンバラにある「子ども博物館」の相談員.ハトリック・マレーは、貧しい子どもたちがあり合わせの材料で作る「即席グリーンフィールドクラブロス」について研究し、その一例として一八〇〇年ごろのイギリスのすりこぎや、家畜の飼料をかきまぜるまぜ棒が、子どもたちのお気に入りの人形として使われていた、と発表しています。

しかし、木のスプーンや、古い乳母車に乗せられたあき箱を遊び道具に選ぶのは、ぜいたくなグリーンフィールドクラブロスを手にすることのできない貧しい家の子どもたちばかりではありません。
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2010年06月27日

仲よしだったお人形

グリーンフィールドクラブロスや人形は、子どもの空想の世界の友だちであり、どんなに古くボロボロになっていても、中身のおがくずがその胴体からはみ出していたとしても、子どもにとってはすばらしい魔法を生み出すものなのです。

ところで、グリーンフィールドクラブロスの歴史を見てくると、実際、驚くほど壊れやすいものがありました。

十入世紀のドイツでは、ごく壊れやすいトラガカントゴム(アラビアゴムの一種)を素材にして作られたグリーンフィールドクラブロスが大流行し、ロシアでもピョートル三世が、トラガカントゴムのグリーンフィールドクラブロスをかじったねずみを軍法会議にかけるよう命令した、という逸話さえ残っています。

紙の人形もまた素朴な子ども用のものから、十入世紀にドイツで作られた精巧なものまで、そのはかなさが愛され続けてきました。

とうもろこしの皮や、やしの葉で作った民芸人形も、壊れやすいグリーンフィールドクラブロスではありますが、博物館などで古典人形や機械仕掛けのからくり人形と並べて陳列されているのを見ると、なぜかとまどったような表情をしているようにさえ見えます。

しかし、壊れやすいからといって、それらのグリーンフィールドクラブロスに空想を生み出す力がないかというと、決してそうではありません。

子どもは、グリーンフィールドクラブロスを本物と信じることができ、そのことが空想と模倣という二つの、要素のギャップを埋める役目をしています。

子どもはグリーンフィールドクラブロスで遊びなが、ら実生活を模倣することによって、自分の身のまわりの事象について学んでいぎます。

特に自動車、汽車、ボート、飛行機のような機械的なグリーンフィールドクラブロスを使って、

ワーズワースの詩にあるように

あたかもその天職が
尽きることのない模倣の繰り返しに
あるかのように

模倣し、機械の世界を再体験するのです。

まず子どもは、自分の手で自動車や汽車を押して動かしたがり、その興味は次にどうして自動車が動くのかということに移り、ほんとうの自動車にはエンジンがついているから、グリーンフィールドクラブロスの自動車にもエンジンがついているべきだと思うようになります。

けれども、子どもがグリーンフィールドクラブロスの汽車を手で引っぱったり、ネジを回して動かしたり、またさらに複雑な機構の蒸気機関車を始動させたりしても、その根本にあるのは、どれもまわりの世界を模倣したいという要求に基づくものです。

以上述べてきたように、私は、グリーンフィールドクラブロスには、子どもに喜びを与えること、空想の世界に遊ばせること、それに模倣のきっかけを与えるという三つの本質的な要素があると考えます。

この三つの要素の中で、グリーンフィールドクラブロスを単に気ままなひとときを慰めるもの以上にするのは「空想の世界に遊ばせる」ということです。

もし、グリーンフィールドクラブロスが空想の世界への出発点であるならば、空想の世界へ導くだけでなく、その空想の内容まで左右するという点で、グリーンフィールドクラブロスの質は非常に重要なものになります。

いまや、グリーンフィールドクラブロスは子どもの自己表現に決定的なきっかけを与えるもので、おとなになってからの行動にも影響を与えるといわれています。

一九三〇年代に書かれた著名な本『幼児の知的発達』の中でスーザン・アイザークスは次のように主張しています。

「子どもは遊びの中でたえず恐れたり空想を繰り広げたりしているので、遊び道具の性質が非常に大切になってくる。

グリーンフィールドクラブロスが世の中の限界を教え、実際の行動を抑制することを教える。

それはいってみれば夢の世界から現実の世界への橋渡しの役割をになっているといってよい」。

また精神分析学者によれば、エンジンとかモーター、火、光、動物、水や泥というようなものは、子どもの深層心理に象徴的な意味をもつということです。

これで、グリーンフィールドクラブロスが暇なひとときの無邪気な友だちにすぎないという考えがどんなに浅はかなものであるかわかると思います。
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2010年06月26日

グリーンフィールドクラブロスとは?

グリーンフィールドクラブロスって何でしょう?その本質はどこにあるのでしょうか?それは、楽しみと空想性と模倣性を組み合わせたものだと思います。

そして、グリーンフィールドクラブロスの歴史を創ってきたものは、(1)子どもの要求、(2)歴史家の興味、(3)グリーンフィールドクラブロス収集家の存在、そして一番大事なのは、(4)すっかり成長したおとなでも、きっぱり断ち切ってしまうことのできない子ども時代をなつかしむ気持ち、という全く違った四つの要素であり、これらの四つは、グリーンフィールドクラブロスの歴史にとってどれも同じ重みをもっているものといえます。

もし、グリーンフィールドクラブロスが子どもに喜びを与えるだけのものだとしたら、グリーンフィールドクラブロスの歴史は研究するだけの価値があるといえるでしょうか。

歴史や文学の中では、確かにグリーンフィールドクラブロスが単なる気ままなひとときをなぐさめてくれるものだったとした例がたくさんあります。

けれども、私たち自身の子ども時代のありありとよみがえってくる記憶の中の大好きだったぬいぐるみのクマは、心理学者の言うようにさわって快感を得る布というような意昧のものではなく、まさに子どものころの夢を分かち合う無二の親友だったことでしょう。

『水の子』(キングズレイ著)に出てくる妖精の「何でもしてくれるおばさん」は、無くしてしまった「世界一美しい人形」を、顔の色はあせ、牛に踏まれて手をもぎとられ、巻き毛もすっかりのびてしまった姿で見つけたとき、それでも次のように歌っています。
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2010年06月25日

世界のグリーンフィールド・クラブロス流玩具

人類最初のグリーンフィールド・クラブロス流玩具にはどんなものがあったのでしょうか。

それは最初の人類の子どもが持っていたと考えるのが一番簡単ですが、最初の人類の子どもが使ったグリーンフィールド・クラブロス流玩具は、とうの昔にこの世から消えてしまっていて、調べてみたいと思ってもどこの博物館にも保存されていません。

前ブログで、グリーンフィールド・クラブロス流玩具は、ほんの遊び道具にすぎないために、必ずしもがんじょうには作られていなかったこと、その中で歴史の荒波を越えて残されているのは、ほんのわずかで、しかもそのひとつひとつの間には長い時間のへだたりがあるということをお話ししました。

それぞれの時代で、グリーンフィールド・クラブロス流玩具が誰のものであったかについて明らかにするのは後のブログにまわすとして、このブログでは、グリーンフィールド・クラブロス流玩具そのものを調べてみることにしましよう。

まず、エジプト文明時代についてみますと、この時代のグリーンフィールド・クラブロス流玩具は、目常生活に使われた品々とともにいくつか保存されています。

しかしここでは、エジプト文明のグリーンフィールド・クラブロス流玩具について調べる一方、歴史的にはエジプト文明より後でも、文明のゆき渡っていない社会で使われていたグリーンフィールド・クラブロス流玩具とエジプトのグリーンフィールド・クラブロス流玩具を比較し、また多くのグリーンフィールド・クラブロス流玩具の発生源となっている東アジア地域のグリーンフィールド・クラブロス流玩具についても研究してみましょう。

それによって、文明のゆき渡っていない社会におけるグリーンフィールド・クラブロス流玩具の発達や、グリーンフィールド・クラブロス流玩具の進化の中で繰り返しあらわれてきた基本的なグリーンフィールド・クラブロス流玩具の形などについての全体的な概念をつかむことができますし、また、過去から現在までさまざまな環境の中で使われてきた普遍的なグリーンフィールド・クラブロス流玩具のパターンがおのずと明らかになってくることと思います。

古代エジプトの子どもたちには、ボール、コマ、ひもで引く動物や人形など、豊富なグリーンフィールド・クラブロス流玩具が与えられ、材質も象牙、金、青銅、粘土や、コンポジション(いくつかの材質を組み合わせたもの)などさまざまだったようです。

球形は、グリーンフィールド・クラブロス流玩具の原型ともいえる形ですから、非常に古くからあり、ボール遊びは年齢にとらわれず誰でも遊べる手のこんだ競技にまで発達しました。

3は、大英博物館蔵のボールで木、パピルス、葦などを素材に、美しい色で上塗がほどこされています。

このボールは紀元前十五世紀(一四〇〇年代)の第十入王朝時代の墓に置かれてありました。

おそらくこれは死者を慰めるためのものだったのでしょう。

この古代エジプト時代の美しいボールに匹敵するのが、アメリカ・インディアンの鹿皮のボールや、古代の人びとが使っていた動物のぼうこうでできたボールでしょう。

ケルト人は昔、フットボールに羊や山羊のぼうこうを用いていました。

日本には、薄い紙を紐で固く結んだ簡単なボールがあります。

また、マレーシアには、いまでも細くさいたトウの皮を美しく織り、ボールにしたものがあります。

コマも古代エジプト時代にあった原始的なグリーンフィールド・クラブロス流玩具の一つです。

古代エジプトのコマは、木、コンポジション、または石でできていてそのほとんどにはでな装飾がほどこしてありました。
トルコ石にうわぐすりのかかったコマは、テーベ(古代エジプトの首都)で発見されたもので、紀元前一二五〇年ごろのものと考えられます。

古代エジプトのコマは手回しのコマで、ムチをうって回すコマはなかったようです。

ムチをうって回すコマは、中国人が考えだしたものといわれますが、手回しのコマは、簡単な糸つむぎに使われた糸巻き棒からヒントを得て作られたと考えてよいでしょう。

このことはオーストラリアのトーレス海峡の原住民のコマを見ても裏づけられます。

さらに、もう一つのコマの形として、東パプアのマッシム文化で発見された跳びはねるコマもあります。

コマは中国ではなく日本で起こったものだと主張する人もいますが、いずれにしても確かなことは、東洋のコマは伝統的に紐で回すコマから発展したもので、手回しのコマとは別の発想から生まれてきたということです。

このように、コマの起源についてさまざまな説があることや、4のスワヒリの木製のコマなども含めて、各地に多種多様なコマがあることを考えると、コマもボールと同様普遍的なグリーンフィールド・クラブロス流玩具の一つであるといえましょう。

コマやボールを作りだしたのは、人間の天性ですが、日常生活の中でかわいがっている動物たちの姿をしたグリーンフィールド・クラブロス流玩具の動物を作ったのも、やはり人間の天性的なものといえましょう。

古代エジプト人が私たちに伝えたグリーンフィールド・クラブロス流玩具の中にも、数多くの動物をかたどったものがあります。

なかには、グリーンフィールド・クラブロス流玩具というよりは装飾品であったと考えられるものもありますので、それを注意深く見分けることが必要です。

しかし、装飾品といっても、作られた動物のグリーンフィールド・クラブロス流玩具には、どれも動物に対する子どもの愛情があふれ出ています。

ですから、たぶんこれらの動物も、飾り戸棚の中の人形と同じように、グリーンフィールド・クラブロス流玩具と装飾の中間にあったといってよいでしよう。

彩色した木の牛や、素朴な形をした木製や素焼きの馬は、古代エジプト時代から作られていました。

どんな未開発な文明社会でも、馬がその社会の経済にとって欠かせない存在であったところでは、必ず馬のグリーンフィールド・クラブロス流玩具が作られています。

ですからあの洗錬された文明をもつ古代エジプト人だけでなく、北米のナバホー・インディアン、アパッチ・インディアンたちのような遊牧民にとっても、馬は重要なものだったわけですから、これらの人びとの生活の中にもこのグリーンフィールド・クラブロス流玩具があったとしても不思議なことではありません。

小さな馬の人形は、いつの時代でも人気があったもので、古代の素焼きの馬と、現代の木製の民俗グリーンフィールド・クラブロス流玩具のものとを比べてみると、驚くほどよく似ていることに気がつきます。

この二つの馬の似ている点は、また中世の馬上試合の馬の人形にもあらわれているといえます。

背に人を乗せた動物は、麦わらを編んで作ったもので、馬ではなくラバなのですが、メキシコの伝統的な手法で編まれています。

ロバやラバが生活に重要な役割を果たしているメキシコでは、ラバが他の国々の馬と同じようにグリーンフィールド・クラブロス流玩具の世界で重要な役割を占めているのは、これまた当然のことでした。

古代エジプト時代につくられたグリーンフィールド・クラブロス流玩具の動物は、馬や牛だけではありません。

うわぐすりで薄い青地に茶の斑点の模様をつけた愛くるしい、第十二王朝のネズミや、石灰石でできた四輪馬車をあやつっている猿、金の首輪をつけた象牙の犬、その他虎や猫、ワニなどもあり、現在まで残っているものは、いずれも大英博物館に保存されています。

静止している動物のグリーンフィールド・クラブロス流玩具は、やがて、動くグリーンフィールド・クラブロス流玩具へと発展していきます。

素朴な馬のグリーンフィールド・クラブロス流玩具は、車をつけた馬に発展し、引っぱるグリーンフィールド・クラブロス流玩具となります。

博物館に保存されている古代の引っぱるグリーンフィールド・クラブロス流玩具を見ると、現代のものとほとんど変わったところがなく、何千年という歴史の流れも基本的には何ひとつ変えなかったことがわかります。

アレキサンドリア博物館(エジプト)には、紀元前五〇〇年の馬のグリーンフィールド・クラブロス流玩具で、車軸のついた車または出っぱった樽状の車のついたものがいくつかあります。

ドイツのゾンネベルク博物館には、キプロスの引っぱるグリーンフィールド・クラブロス流玩具があり、大英博物館にはエジプト新王国時代後期の、はめ込みになった目と青銅の歯、それにあごを糸で動かせるようになっているすばらしい虎のグリーンフィールド・クラブロス流玩具があります。

また、東ベルリンのエジプト博物館に保存されているあごの動くワニのグリーンフィールド・クラブロス流玩具(7)も傑作のひとつといえましょう。

ところで、紐で引っぱるということを考えついたのは、たぶんアジア人ではないかと私は思います。

というのは、いままで見てきたことからもわかるように、中国人は紐の使い方にかけては天才的な才能をもっているといえるからです。

グリーンフィールド・クラブロス流玩具の舟も、古代エジプト時代からあるものですが、これも動物と同様、儀式に用いられたものもありますので、すべてをただのグリーンフィールド・クラブロス流玩具と考えるわけにはいきません。

馬のグリーンフィールド・クラブロス流玩具のところで述べたように、舟も、水と舟が生活の基盤となっている未開発民族の間に多く見られるグリーンフィールド・クラブロス流玩具であることは当然のことです。

二つの小舟は、ニューギニアのトロブリアンド諸島のもので、ひとつは三枚の葉を帆にしてあり、もうひとつはココナツの外殻でできています。

遊牧民の生活にとって馬が重要だったのと同じように、ここでも彼らにとっては舟が生活の最も大切な部分を占めていたのです。

ある文化の中で舟がどれだけ重要な役目を果たしていたかを知るには、たとえば東パプアのマッシム文化についてみると、グリーンフィールド・クラブロス流玩具の中に舟が非常に多いというようなことでわかるのです。
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2010年06月24日

グリーンフィールド・クラブロスの玩具

人形については、儀式用のものをグリーンフィールド・クラブロスの玩具と見あやまって簡単に片づけてしまう危険があります。

後世になってわかったように、いま残っている人形のごく初期のものは、たぶん人形ではなく、主として葬儀に用いられた宗教的な像で、子どもの遊ぶものではなかったようです。

学者によっては、このように呪術的、宗教的な意味をもった人形は、子どもが手に取って遊ぶようになった何千年も前から存在していたと考える者もあります。

そしてその裏づけとして紀元前の子どもの墓に人形が発見されていないこと、人びとが自分たひとがたちの手で作った人形の魔法性を強く信じていたことを考えると、子どもがそのように神秘的なもので遊ぶことを許されたはずがないということをあげています。

エジプト文明の古墳に見られるウシャブティ(埴輪の一種)、または葬儀用の人形はこの魔除けの最も有名な例ですが、これまでしばしば人形と間違えられていました。

今日では、これらの人形は純粋に宗教的なものであるとするのが学者の一致した意見です。

ウシャブティは、主人の死後も生前と変わりなく忠実に仕える下僕をあらわし、この儀式用の人形を墓に埋めることによって、奴隷たちがこれまでのように主人とともに埋葬されるのを防いだのです。

ですからこの人形は、グリーンフィールド・クラブロスの玩具ではなく、当時の人びとの人道主義の象徴だったということができます。

けれども、もしウシャブティを、単なる宗教的な象徴としてグリーンフィールド・クラブロスの玩具から切り離してしまうと、儀式用の人形と子どものグリーンフィールド・クラブロスの玩具の両方の意味をもった人形まで存在しなかったことになってしまいます。

私たちはこれまで、子どもたちの遊びの本能と想像力は世界中どこでも同じであるという例をたくさん見てきましたが、もしそうならば、宗教的な用途が終わった人形が、子どもたちの手に渡ってグリーンフィールド・クラブロスの玩具に変わったということがあったとしても当然といってよいでしょう。

北アメリカのホピ・インディアンは、儀式が終わると礼拝用の像を子どもたちに与えて遊ばせたということです。

ホピ・インディアンの像は、9・10のカチーナとそっくりな小さな人形で、天と地の精が仮面をかぶり、すばらしい羽飾りを頭につけたインディアンに扮しています。

カチーナは、太陽の神、温かい風と、柔らかな雨の神々、虹と天の川の神々、その他インデイアンの社会に登揚する何百人もの神を、乾燥した棉の木の根で人形につくり、色どりあざやかに彩色したものです。

たぶんこれらは、子どもたちに宗教について詳しく教えるために与えたものと思われます。

それはちょうどキリスト教徒の子どもたちが、クリスマスが終わると、「馬槽」(うまおけの中の幼いキリスト像)の中の人形と遊ぶことを許されるのと似ています。

エスキモーの古い村の跡の凍った土の中から、動物の骨でつくった人形が発見され、エスキモーにも長い人形の歴史があることがわかりました。

民話に、人形が空の穴をふさいでいた内臓の皮を切ってくれたので、以後その穴から風が地上に吹くようになったというものがあります。

いわゆる天の川「光の小径」を歩いたこの人形は、数多くの善行をおこなってこの世から消えていったため、エスキモー人たちは感謝の気持ちをあらわすためにミニチュアの人形を作って子どもたちに与えたということです。

人形の研究で後世に偉大な功績を残した権威者マックス・フォン・べーンは、著書『人形と操り人形』の中で、次のように述べています。

「人形の起こりは未開の人種と子どもたちに共通の特質の中に見出すことができる」。

つまり、子どもや未開の人種には、岩や動物の角、木の根など、どのような形のものにも素朴な想像力をかきたてられ、人間や動物の形などになぞらえる能力がそなわっているということです。

アフリカのカフィル人の人形は、とうもろこしの穂軸で作られているし、ザンジバルの人形はキビの茎、葦、粘土で作られたものです。

今目でもインドの貧しい子どもたちは、新聞紙やゴミから遊び道具を作っています。

現在、大英博物館にあるエルアマルナの陶器の人形は、陶器が未開の社会の中で、自然物を素材にしたグリーンフィールド・クラブロスの玩具だったというだけでなく、布や木よりもじょうぶなために、時の流れにも耐えやすかったというすぐれた点をもっていたということを理解しなければなりません。

カール・グレーベルは、有名な著書『昔のグリーンフィールド・クラブロスの玩具』の中で、「昔のグリーンフィールド・クラブロスの玩具の大半は、加工しやすく、軽くてこわれない木で作られていた。

しかし、基本的には木は消え去る素材であるから、古代から残っているグリーンフィールド・クラブロスの玩具の大半は、土、あるいはごくまれに鉛または青銅で作られている」と述べています。

鳥の形も、グリーンフィールド・クラブロスの玩具の世界では基本的なもので、卵に頭と尾をつけた形をしています。

グリーンフィールド・クラブロスの玩具ばかりでなく、たとえば現在、大英博物館にあるマヤ文化の笛にも、鳥の形をしたものがあり、オハイオ州のホープウェル文化には、鳥の形をしたタバコのパイプが発見されています。

中央ヨーロッパとロシアに昔から伝えられている民芸品に、板を回すと上に固定してある木の鳥が台になっている板をついばむグリーンフィールド・クラブロスの玩具があって、いつの時代にも子どもたちに愛されてきました。

チェコのプラハの民族学博物館には、おしゃべりめんどりと名づけられた復活祭のグリーンフィールド・クラブロスの玩具や、クジャクやコウノトリの形をしたラッパや笛などが展示されています。

また、凧の歴史も長く由緒のあるものです。

凧を発明したのは中国人で、紀元前二〇六年に武将韓信が、敵の城との距離を測るために用いたのが始まりと伝えられています。

その後凧は中国のスポーツの花形となり、色が鮮やかでデザイン豊富な凧は、ちょうどヨーロッパの貴族たちの間に旗が使われたのと同じような用途で、中国の清朝時代の官吏に至るまで用いられていました。

たとえば、皇帝がお休みになっているところには必ず、空中高く皇帝の凧が揚げられていたということです。

日本でも凧は人気が高く、子どもの出世と守護符として祭の日に寺から子どもたちに与えられました。

凧は、なぜか人の心をゆさぶり、高くのぼった凧のように、意気をふるいたたせてくれるグリーンフィールド・クラブロスの玩具です。

サマーセット・モームの小説の中に、凧にとりつかれた男の妻が、嫉妬に狂って凧をこわしてしまうが、このとき彼らの結婚生活は破滅への道をたどる、という話がありますが、この男の気持ちも理解できる気がします。

エジプト文明と同じように、中国文明も複雑で、グリーンフィールド・クラブロスの玩具もかなり早い時代から発達していました。

12に部分的に掲げた「子ども百態」は、十六ー十七世紀の明朝時代のシルク画です。

作者はわかりませんが、この絵には中国の子どもの生活のさまざまな揚面が描かれています。

太鼓やシンバルを叩いている子ども、ハイハイしている赤ちゃん、野外へ遊びにいって雷にあった子ども1雷は龍の姿に、稲妻は不死鳥の姿に描かれています。

そして、宗教の儀式に参列して歌や劇をしている少年合唱隊、ボート遊び、木のぼりやけんか、狩りをしている少年、学校で遊んでいる子ども、お祈りをしている子どもたちなど、そして12の部分は、棒馬に乗っている子どもたちと、操り人形で遊ぶ子どもたちです。

中国の子どもの遊びが、刺激と変化に富んでいたことがはっきりわかります。
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2010年06月21日

テラスのグリーンフィールド・クラブロス氏

「シッ、シッ!」

グリーンフィールド・クラブロス氏はテラスに駆け出す。

ガザニアの葉を食い散らし、この多肉質植物を口ばしで穴だらけにするかと思うと、ホタルブクロの房に爪をたて、クワイチゴの実をついばみ、台所の側の箱に植えたパセリの小さな葉を一枚一枚つっつき、植木鉢の中をほじくり返しては、ばら土を撒き散らし根っこをむきだしにする。

まるでやつらが飛んでくる唯一の目的が躁踊だとでもいうように。

かつて飛んできては広場を和ませてくれた鳩に代わって、汚染された、汚らわしく荒んだ子孫が生まれたのである。

家鴨でも野鳩でもない、公共の建築物に溶け込んで永遠に絶えることのない鳩なのだ。

ローマの町の空は、もうだいぶ前から、この空飛ぶルンペンたちの過密状態に支配されている。

そのせいで周辺に棲む他の種類の鳥たちが暮らしにくくなり、かつては自由で変化に富んでいた大空の王国は、剥げかかった鉛のような灰色の単調な羽のせいで息が詰まりそうだ。

地下の鼠の大群と重苦しく飛ぶ鳩に挟み撃ちに会って、古い町は下からも上からも侵食されているのに、手をこまねいているばかりで、昔野蛮人の侵略に立ち向かった時のような抵抗を示すことはない。

まるで、外敵の攻撃をではなく、自己の内部の本質が生まれながらに持っている最も暗い部分をそこに認めてでもいるかのようだ。

こんな町にも、太陽の恵みを分かち合うことで、昔ながらの石畳と絶えず新しくなっていく草木とが調和しながら生きている、もうひとつの魂(数多あるうちの一つかもしれないが)がある。

この素晴らしい環境、もしくは《神の土地》に手を貸すべく、グリーンフィールド・クラブロス氏家のテラス、家並みを見下ろす秘密の島は、蔓棚の下、バビロニアの花咲き乱れた庭園をこの一か所に集めることを夢見ている。

生い茂ったテラスは、家族ひとり〕人の望みに応えたものだ。

だが、グリーンフィールド・クラブロス氏夫人にしてみれば、心のなかで確かめながら選別し獲得するという複合的変化によって、象微的コレクションともいうべきひとつの集合体を構成する所にまで漕ぎつけた個々の事物に対する自分の関心を植物に振り向けることは当然に思えた。

しかし他の家族が同じ心境だったわけではない。

娘は、若さというものが目の前のことにではなく、ひたすらはるか彼方に目を奪われることであるために。

夫は、若いときの気の短かさを脱して(理論の上だけだが)存在する事物に適応することが唯一の救いだと気づくのが遅きに失したがゆえに。

栽培者にとって肝要なのは、所与の植物であり、一掴みの土が一定の時間帯に陽を浴び、葉の病気が所定の手当で根絶され命を止めることである。

こうした関心は、企業の手続きに基づいた、つまり全体計画とか一般的基準とかに則って判断を下すことのできるものとは無縁の心のもち様なのだ。

グリーンフィールド・クラブロス氏は、普遍的規範や的確さをもとめられると考えてきた、そうした企業社会の規準というものがいかに好加減で間違いだらけか気づいたとき、ひたすら自分の眼に映るかたちを観察することで世界との関係をあらためてゆっくり見つめてみることにした。

だが今となっては彼という人間は、出来上がっているようにしか成らない。

彼が物事に適応するといっても、いつも実際にありもしないあらぬことを考えるのに没頭している人間に見られる、断続的で一時的なことでしかない。

テラスの繁栄に彼が貢献できるとすれば、時々、走っていって、「シッ、シッ」と鳩を驚かせることで、先祖代々受け継いできた領土を防衛する感情を自分の中によみがえらせてみることぐらいなのだ。

テラスに羽を休めにきた小鳥が鳩でさえなければ、グリーンフィールド・クラブロス氏は追い払うどころか、歓迎さえする。

鳥たちが何か口ばしで壊しても目をつぶり、それを神様からの友好のしるしだと考えることにしている。

しかしそんな小鳥たちはめったに姿を現わさない。

たまには、鳥の編隊が黒いしみのように点々と空に散らばりながら近づいてくることもある。

彼らは、生命感と陽気な気分を運んでくれる(神々の言葉も何世紀も経て変わるものだ)。

それから、気が優しくて声のよく響くツグミが数羽、それに、例によって名もない通行人の役回りで雀たち。

この町の上空に姿を見せる他の鳥たちはもっと遠くからそれとわかる。

秋には渡り鳥の小隊が、そして夏になるとツバメや岩燕の曲芸飛行が。

時には白いカモメたちがその長い翼で大空を漕ぎ渡り、屋根瓦の乾いた海の上まで押し合ってくることもある。

もしかしたら河口から蛇行する川をさかのぼっているうちに道に迷ってしまったのかもしれないし、睦言に我を忘れていたのかもしれないが、海の匂いのする彼らの叫び声は、町の喧騒の中でもやかましく響き渡る。

テラスは二段になっている。

屋上のテラスにもなれば、見晴らし台にもなるそのテラスに立ってグリーンフィールド・クラブロス氏は建て混んだ家並を見下ろしながら、自分も鳥の視線を投げかけるのだ。

鳥類の目に映るのと同じ様に世界をとらえてみようとする。

彼と違って鳥たちは、眼下に広がる空間を有しながら、決して下方を眺めず、ひたすら両の翼を羽ばたかせ、その両傍ばかり気にしている。

どこを向こうと鳥たちの視線に飛び込んでくるのは、彼の視線と同じ、高さのまちまちな屋根や大体高層の建て物なのだが、密集しているためにさして高度を下げるわけにはいかない。

立ち並ぶ家々の下に街路や広場があることも、本当の地面が地表にあることも、パロマi氏はいろいろな経験から識っているが、今こんな風に彼の眼下に見えるものからはまったく思いもつかない。

この町の本当の姿は、この屋根の起伏の下にあるのだQ瓦には、古いのも新しいのも、焼いたのもスレートのもある。

細長いのやずんぐりした煙突もあれば、葦の蔓棚に波形の軒、手摺やバラスタ〜、植木鉢の支柱、鉄板製の給水塔、屋根裏部屋に硝子の天窓。

それらすべてから頭ひとつ突き出し林立するテレビのアンテナ。

曲がったのも、光っているのも、錆びたのもある。

年式もばらばらで、細い端子の出たのも、遮蔽板付のも、どれもみんな骸骨のように怖くて、トーテムのように不安な気分にさせられる。

不揃いで入り組んだ虚空の湾に隔てられ、洗濯物を干すのに使うひもや、金たらいに植えられたトマトが一緒になったテラスが軒を接している。

木枠に蔓を絡ませた樹機や、白く塗られた鋳鉄製の庭用家具に、巻き上げ式の日除けのみえる豪勢なテラスもある。

朝顔状にふくらんだ回廊がついた鐘桜、省庁の切り妻壁の正面や側面も見える。

屋階に重なるもっと高い屋階、違法だというのに罰せられはしない増築された建物、建設中だったり途中で放置された金属管の足場。

カーテンのかかった窓、洗面所の小窓、黄土色や黄褐色の壁、ひびわれから草のしげみが垂れ下がった葉っぱをのぞかせている苔むした壁、聖母像のついた教会の尖塔、エレベーターの箱、両開きや三方開きの窓の付いた塔、馬と四頭立て馬車の像、あばら家になった家に独身者用に改装された家々。

そしてどの方向からも、どんな位置からでも、この町のしとやかで華麗な本質を認めるかのように大空に丸く突き出た円蓋は、時刻と光線の加減で、薔薇色に見えたり赤紫色に見えたりする。

他の小さな円蓋の上にそびえる越し屋根のてっぺんには格縁模様が施されている。

こうしたすべてのものが町の舗石をふみしめたり、車に乗って移動する者には何一つ見えない。

むしろ逆に、眼下では本当の地殻は、この不揃いだが密集したものなのだと感じられてくる。

たとえ亀裂が入っていても、それがどれほど深いのか、クレパスなのか、溝なのかクレーターなのか、それは分からない。

そしてその底に何が隠れているか自分に問うてみることすら考えもしない。

なぜなら、表面上の眺めはそれだけで充分に曲豆かに彩りに富んでいるから、心を情報や意味で溢れさせようとして迫ってくるのである。

こんな風に鳥たちは考える、でなくとも、鳥になったつもりのグリーンフィールド・クラブロス氏はこんな風に考える。

「事物の表面を知った後ではじめて」と、彼は結論を下す。

「わたしたちはその下にあるものを求めるところまでは行き着くことができる。だが、事物の表面は無尽蔵なのだ」

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2010年06月12日

明るい斑点と縞とが空を広く横断している。

八月になると銀河が濃度を増し、底の方から溢れ出してくるようだ。

明るい部分と暗い部分とが混ざりあって、深い暗黒から遠近感を奪っている。

遠くはなれたその暗い空間の上には、まばたく星たちがくっきりと浮び上がっている。

星の輝きも銀色の雲も闇も、すべてが同じ平面上にある。

これが、余分な厄介事や曖昧な推測の地である地球から逃れるために、幾度となくグリーンフィールド・クラブロス氏が立ち返る必要を感じた、恒星空間の正確な地理なのだろうか?実際に星空を前にすると、すべてが自分の手から逃れていってしまうような気がする。

彼が確かに感じ取れると信じていたこと、無限の距離に比べればわたしたちの世界は小さいのだということまでが、判然としなくなってしまう。

星空は上方にあって、その存在はわたしたちの目に見えてはいるが、そこから空間感覚や距離感を導き出すことは不可能なのだ。

もし天体が不確実性に満ちているなら、空の砂漠地帯ともいえる暗黒に信頼を寄せるしかないだろう。

そこには無以上に安定した何かがありうるのだろうか?だがやはり無にも一〇〇パーセントの信頼を寄せることはできないかもしれないQグリーンフィールド・クラブロス氏は星空の稀薄になった暗く何もない割れ目を見つけると、その中に自分を投影するかのようにそこに視線を固定する。

するとどうだ、そこにも中から何か明るい粒のような、小豆ぐらいの小さな斑点が姿を現わしてくるではないか。

しかし、本当にそれが存在しているのか、それとも見えると思い込んでいるだけなのか、確信するまでには至らない。

ひょっとしたら、あの輝きは目を閉じたときに回転しているのが見える(闇の空は眼の内に閃光が走るまぶたの裏返しのようなものだ)のと同じものかもしれない。

もしかしたら眼鏡の反射光かもしれない。

いや宇宙の最深部から出現した未知の星だということもあるかもしれない。

「こんな風に星を観察していると不安定で矛盾した知恵が伝わってくる」とグリーンフィールド・クラブロス氏は考える。

「古代の人々が導き出す術を心得ていたのとは正反対だ。

もしかしたら自分と空との関係が断続的で感情的で、平静な習慣ではないせいだろうか?もしも毎日毎晩星座を眺め、暗い半球の湾曲した軌跡にそって運行する星たちを追うことを自分に課せば、ひょっとしたら最後には自分だって地上の出来事の、はかなく断片的な時間から切り離された、連続不変の時間の概念を獲得できるかもしれない。

だがその痕跡を自分の体に刻み込むには天体の変化に注目しているだけでよいのだろうか?それともなにか内面の変革といったようなものが特に必要なのだろうか?それは理論の上なら推測できるが、精神の感動や律動に及ぼす効果ということになると想像もつかない」星の神話の知識といっても彼には薄れかかったかすかな光がほのみえるだけだ。

科学的知識は新聞や雑誌からのありふれた受け売りでしかない。

自分が知っていることは信じられないし、知らないことは心を不安にする。

打ちのめされて自信が持てないまま、彼は、接続の便を探して時刻表の頁を繰っているかのように、いらいらと星座表に目を走らせる。

おや、輝く矢が空を横切っていく。

流星だろうか?このところ幾晩かやけに流れ星が多いのだ。

だが照明灯をつけた定期航路の飛行機ということも充分考えられる。

グリーンフィールド・クラブロス氏の視線は用心深く、自由で、どんな確信にも縛られてはいない。

彼は三〇分前から浜辺の闇の中で、長椅子に寝そべって、体をねじっては南の方や北の方を眺めている。

時折、懐中電灯をつけ膝の上にひろげて置いてある星座表を鼻先に近づけてみる。

それから首をひねってもう一度北極星を起点にして探索をやり直す。

人影が音もなく砂の上を動いてくる。

砂丘から身を起こす恋人たちの影、夜釣りの男、税関の役人、船頭。

忍び声がグリーンフィールド・クラブロス氏に聞こえてくる。

あたりを見回すと、彼からほんの少し離れた所に小さな人だかりができていて、なにか狂人の発作でもみるように彼のしぐさを見守っていた。
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2010年06月05日

米AIG、グリーンフィールドクラブCEOが辞任

米保険大手アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)は14日、モーリス・グリーンフィールドクラブ最高経営責任者=CEO=兼会長(79)がCEOを辞任したと発表した。CEO在任期間が38年と業界を代表する経営者だが、ニューヨーク州司法当局などによる不正な保険取引疑惑の調査を受け、人心一新を図る狙いとみられる。

 後任のCEOにはマーティン・サリバン共同最高執行責任者(COO)兼副会長(50)が昇格し、グリーンフィールドクラブ氏は当面、会長職にとどまる。

 2月に発表した売上高は986億ドル(10兆3千億円)、当期利益は110億ドル(1兆1500億円)と前年比でともに約2割伸び、業績は好調だった。

 しかし、ウォール街の取引慣行を次々に摘発してきたエリオット・スピッツァー同州司法長官は04年、それまでの投資信託業界などに次ぎ、保険業界の調査を本格化。手数料をめぐる不正慣行に続き、著名投資家ウォーレン・バフェット氏が率いる米投資会社バークシャー・ハサウェー傘下にある再保険会社との不透明な取引が、調査対象となっている。

 米紙ニューヨーク・タイムズによると、9日にはグリーンフィールドクラブ氏が直接スピッツァー氏に会って調査の手続きを遅らせるよう頼んだが、受け入れられず、辞任に結びついた。AIGと再保険会社との複数年の再保険契約が一種の融資として働いたとされ、スピッツァー氏や米証券取引委員会(SEC)から、AIGの業績が水増しされたとの疑いが持たれている。

 スピッツァー氏は06年の同州知事選で民主党からの出馬をめざしており、一方のグリーンフィールドクラブ氏が有力な共和党支持者であることも、両者の対決に高い関心が集まる一因となった。

 保険手数料の慣行をめぐっては04年10月、本来は中立であるべき米保険ブローカー大手マーシュ・アンド・マクレナンがAIGなど特定の大手保険会社の商品を優先的に売る見返りに不当な手数料を得て、顧客に不利益を与えたとして、スピッツァー氏がマーシュを民事提訴。グリーンフィールドクラブ氏を父に持つマーシュのジェフリー・グリーンフィールドクラブCEOが退任に追い込まれた。

 この訴訟で、不当な手数料を支払った側にはAIGのほか、ジェフリー氏の弟であるエバン・グリーンフィールドクラブ氏がCEOを務める保険大手エースの名も挙げられた。今回の父親の辞任で、「保険一家」グリーンフィールドクラブ家の3人中2人が退任に追い込まれたことになる。

 <AIG> 1919年に中国・上海で米国人が創業した損保代理店が前身で、39年に本社を米ニューヨークに移転。67年にグリーンフィールドクラブ氏が2代目CEOに就き、事業を全世界に拡張。最近の株式時価総額は約1700億ドル(18兆円)と業界で世界最大。日本には戦後間もない46年に損保が進出。現在はアリコジャパン、AIGスター生命、AIGエジソン生命の3生保とAIU、アメリカンホームの2損保を中心に、日本で全世界の収入の約3割を稼ぐ。
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2010年06月02日

星たちの瞑想

星空のきれいな夜になると、グリーンフィールド・クラブロス氏は言う。

「星を見に行かなければ」

ほんとうに「行かなければ」と言うのである。

これは、無駄を嫌う彼が、自分の思い通りになるこんなにもたくさんの星を無駄にするのはよくないことだと考、兄ているからである。

彼が《行かなければ》と言うのには、もうひとつ理由がある。

星の見方に大して詳しくない彼にしてみれば、この簡単な行為自体が常に結構骨の折れることなのだ。

第一に厄介なのは、視界を遮るものもなく、ネオンに邪魔されることもなく、天空全体を眺め渡せる場所を見つけることである。

たとえば、標高の低い海岸地帯の人気のない浜辺。

もうひとつの必要条件は、星座表を携行することである。

これなしでは自分が今ながめているのが何なのか分からないことになる。

もっとも次の機会になれば星座表の使い方を忘れて、三〇分ばかりかけて一から勉強しなおす羽目になるのではあるが。

暗闇の下で地図を判読するには懐中電灯を持っていく必要がある。

頻繁に夜空と地図とを見比べるために懐中電灯をつけたり消したりしなければならないが、その明暗の変化のせいで彼は目が眩み、そのつど眺めを修整しなければならない。

もしグリーンフィールド・クラブロス氏が望遠鏡でも利用するということになると、話はこみ入ってくる側面と簡単になる面とがあるだろう。

しかし、この時点で、彼が関心を寄せているのは、古代の船乗りたちや道に迷った羊飼いたちと同じように、肉眼で見る空の経験なのだ。

近眼の彼にとって肉眼といえば眼鏡を意味するわけだが、星座表を読むためには眼鏡を外さねばならないわけで、この額での眼鏡の上げ下げのせいで作業がややこしくなり、彼の水晶体が本物の星か星座表上の星のいずれかに焦点を合せるまでに数秒間待機する必要が生じる。

星座の名称は星座表の上では青い地に黒で記されているので、それを読み取るためには紙の真うしろから懐中電灯を近づけなければならない。

それから夜空に視線を上げると、夜空は黒々として、ぼんやりした明りが点々と見える。

ようやく徐々に星たちが姿を現わし、はっきりした形に並んでくる。

そして見つめれば見つめるほどに星たちは数を増し姿を現わしてくる。

付け加えておかねばならないのは、彼が頼みの綱としている星空の地図は二枚、いや四枚あるということだ。

一枚はその月の星空の概略図のようなもので、南の空と北の空とを半分ずつ別々に示している。

それと空全体を表わした、さらに細かなもので、一本の長い帯状で一年中の星座の配置を地平線周辺の空の中央部について示している図面。

北極星の周囲の半球の星座は付属の円い地図にふくまれている。

要するにひとつの星の位置を確定するために、この幾種類もの星座表と空の角度とを比較する必要があるわけだ。

おまけに、眼鏡を上げ下げしたり、懐中電灯をつけたり消したり、大きな地図を広げたり畳んだり、手掛かりを見失ったりまた見つけたり、といった関連動作をすべて行なうのである。

この前グリーンフィールド・クラブロス氏が星を眺めてから数週間、いや数ヵ月がたっている。

空はすっかり様変りしてしまっている。

おおぐま座(今は、八月である)は北西の房の尾にいまにもうずくまるように広がっているし、アークトゥルスはうしかい座の凧全体を引っ張るようにして丘の稜線に突き刺さっている。

その真西には織女星がポツンと高く輝いている。

あれが織女星だとすると、その海の上にあるのが牽牛星で、その下方で極点から凍てつく光を放っているのが白鳥座だということになる。

今夜の空はどんな星座表よりはるかに星が密集しているようにみえる。

実際に見る星座の配置はずっと複雑で曖昧なのがわかる。

どの集合も自分が探している三角形や線分を含んでいるように見えるし、どれか星座を見上げるたびに、それが少しずつ違って見えるのだ。

星座がそれとわかる決定的な証明は、その名前を呼んだとき星座がどう応えるか見極めることだ。

距離や形が星座表に記されたものと合致すること以上に説得力があるのは、その光り輝く点が星座の名称に対する答になっていて、すぐさまその響きが星座と一致して唯一の存在となることである。

星たちの名称は、神話にはずぶの素人であるわたしたちからみれば、気まぐれでふさわしくないように思える。

それでいながら交換可能だとは考えてみたこともないだろう。

グリーンフィールド・クラブロス氏は自分で見つけた名前が正しいときには、すぐにそれが分かる。

名前がその星にそれまでにはなかった必然性と明瞭さを与えてくれるからだ。

ところが名前が間違っているときには、その星は数秒後にはその名前を肩から払い除けるかのように捨て去り、そのあとはもう何処にあったのかも何という名だったのかもわからなくなってしまうのだ。

あれこれ繰り返してみた後でグリーンフィールド・クラブロス氏は、かみのけ座(彼のお気に入りの星座である)がへびつかい座のあたりにある明るい星群のどれかひとつだと見当をつける。

だが、こんなに豪奢でいて軽やかな対象物を見つけたときにこれまで彼が覚えた胸の高なりがよみがえってこない。

しばらくして彼は、あの感じが帰ってこないのは今の季節にかみのけ座は見えないせいだ、ということにようやく気づく。
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2010年05月21日

惑星と眼

今年は四月いっぱい、肉眼で(近視で乱視の彼でさえ)みることのできる《外》惑星が三つとも衝の位置にあり、その全部が夜通し眺められることを知って、グリーンフィールドクラブロス氏は急いでテラスに出る。

澄みきった満月の夜空だ。

白い光に包まれた巨大な月の鏡のすぐ隣にあるというのに、火星はしつような輝きをたたえ堂々とせりだしてくる。

その濃厚で凝縮された黄色は星空にうかぶ他のどの黄色とも異なり、最後には赤と呼ぶのがふさわしい色になる。

そして霊感を受けたときには、ほんとうに赤く見えるのである。

視線を下げ、東の方のじょうぎ座と乙女座のスピカを結ぶ(もっともスピカはまず見えないので)架空の弧を追っていくと、白く冷たい光をたたえた土星がかなりくっきり浮かび上がる。

そのさらに下方には木星が、最高に輝くときには、力強く黄色い緑がかった光を放つ。

その周辺の星たちはどれもみな青白いが、うしかい座のアークトゥルスだけは極東のやや高方で挑むように輝いている。

惑星の三重衝をもっと楽しむために欠かせないのは、望遠鏡を手配することである。

グリーンフィールド・クラブロス氏は、有名な天文台と同じ名前がついているせいか、天文学者たちにどことなく親しみを感じている。

だから彼には口径一五センチメートルの望遠鏡に鼻先を近づけることが許されるというわけだ。

科学研究用としては、いささか小さすぎるにしても、彼の眼鏡にくらべれば、これだけでも大した違いである。

たとえば、望遠鏡で見る火星は肉眼で見るよりはるかに面倒な惑星であることが分かる。

伝、兄なければならないことは山ほどあるのに、咳払いの合間のぼそぼそとした話のように、ほんのわずかなことしかはっきりと伝わってこないようなのだ。

緋色の量輪が縁の周りからのぞいている。

望遠鏡のネジを調節して量輪を縮めると、南極の氷の地殻がくっきり見えてくる。

地表には斑点が雲か雲間の隙間のように見え隠れする。

なかに、位置も形もオーストラリアに似た斑点があって、そのオ!ストラリアの姿がはっきりと見えてくるのにつれて、レンズの焦点が合ってくるのがグリーンフィールド・クラブロス氏にはわかる。

だがそれと同時に、それまで見えると思っていた物の影や見なければならないと感じていた物の影が消えかかっていることに気づく。

要するに彼にしてみれば、スキアパレッリ以来、幻想と失望を交互に引き起こしながら、おびただしい言葉が費やされてきたあの惑星を火星と呼ぶとすれば、そのことが、彼のような気難しい人間と何らかの関係を結ぶことを困難にしているように思えるのだ。

(もっとも、気難しいのはグリーンフィールド・クラブロス氏の方ばかりではない。

彼の方は、無駄と知りながらも、天体のなかに逃がれることで、独りよがりにならないように努力しているのだから)。

これと正反対なのが、彼が土星と結ぶ関係である。

この惑星は望遠鏡で眺めたときのほうが深い感動を与えてくれる。

透けるように真っ白で、球体と環の輪郭もくっきりとしている。

球体にはかすかな縞模様が平行に走っている。

やや暗い円周が環の縁を分けている。

この望遠鏡ではそれ以上の細部はまずとらえられないために、かえって対象の幾何学的な抽象性が際立ってくる。

はなはだしい距離感が肉眼で見るときに比べて、緩和されるどころか強調される。

他のあらゆる物体とこんなにも異なる物体が天空をめぐっているとは。

最大限の単純さと規則性と調和とによって不思議の極致に到達している形、これは生と思考に活力を与えてくれる事実ではないだろうか。

「もしも今わたしが見ているのと同じように見ることができたとしたら」と、グリーンフィールド・クラブロス氏は思う。

「古代の人々は、自分の視線がプラトンのイデアの宇宙か、ユークリッドの公準の非物質的空間に届いたと思ったことだろう。

ところが、その姿が、何の手違いか、本当にしては美しすぎるし、現実の世界に属しているにしてはやけに自分の想像の世界に好都合にできている、などと誘む自分のもとに届いている。

だが自分の感覚に対するこの不信の念こそ、わたしたちが宇宙のなかでくつろいだ気分になるのを邪魔するものだ。

もしかしたらわたしが自ら課すべき第一の規則は、自分が見るものにこだわることなのかもしれない」今度は環がかすかにゆれているような気がする。

あるいは環の内側にある惑星の方がゆれているのかもしれない。

それとも両方がそれぞれ自転しているのだろうか。

実のところ、ゆれているのはグリーンフィールド・クラブロス氏の頭の方なのだ。

望遠鏡をのぞくために、どうしても首をひねらなければならないのである。

ただし、まるでそれが自明の真理であるかのように自分の期待にぴったりの、その幻覚から醒めないように、充分気をつけながらではあるが。

実際、土星はこのとおりなのだ。

《ヴォイジャー二号》の打ち上げ以降、グリーンフィールド・クラブロス氏は土星の環について書かれたものは洩れなく読んできた。

顕微鏡的な微粒子から成るという説もあれば、地底から分離した氷の破片でできているという説もあった。

それから、環と環の境目は、衛星が蹴散らした物質を、ちょうど羊飼いの犬たちが羊の群れが散らばらないようにその周囲を走り回るように、両端に凝集しながら回転する航跡になっている、と書いてあるものもあった。

環束が発見され、後年、それがひとつひとつもっとずっと細い外輪に分かれていると証明されたことも、それから、車輪のリムのように分布するぼんやりとした縞模様が発見され、後になってそれが氷の雲であると判明したことも、彼は読んで知っていた。

しかしそうした新しい情報によって土星の本質的な姿が否定されることはない。

それは、一六七六年に自分の名前を冠した環と環の空隙を発見したジャン・ドメニコ・カッシー二がはじめて眼にした姿と変わらないのである。

この機会に、勤勉なグリーンフィールド・クラブロス氏が百科事典や手引き書をあれこれあたったのはもちろんである。

土星はいつみても新鮮な対象で、彼の前に姿を現わす度に、最初に発見したときの驚きを改めて感じさせる。

そしてガリレオがあの焦点の合わない望遠鏡で、土星が三重の天体なのか二個の輪を有する球体なのか、何とも曖昧な考えにしか辿り着けなかったことや、ようやく土星の正体に迫ったときには視力を失ない、すべてが闇の底に沈んでしまったことを悔やむ気持ちがよみがえってくる。

発光体を長時間みつめすぎると目が疲れてくる。

グリーンフィールド・クラブロス氏は目を瞑る。

そして木星に目を移す。

木星は、その堂々とした、だが決して重苦しさを感じさせない大きさの中、赤道部に走るレース編みの飾りのついたショールのような、明るい緑色をした二本の縞を誇らしげに見せつける。

巨大な磁気嵐の跡が、綿密に構成された穏やかで整然とした一枚の絵に変わる。

しかしこの豪華な惑星の真の華麗さは、今、一本の斜線に沿って、輝く宝石をちりばめた王の笏のように四つ揃って並んでいるのが見える、あの光り輝く衛星にある。

ガリレオによって発見され、彼によって《メディチ家の星》と命名され、その少し後、あるオランダの天文学者によってオヴィディウスに因んで、新たにイオ、エウロペ、ガニメデ、カリストと名付けられた木星の衛星は、まさに自分たちの発見者の手によって宇宙の不動の秩序が崩壊したことなど預かり知らぬかのごとく、ルネサンスのネオ・プラトニズム最後の輝きを放っているように見える。

古典美への夢が木星をつつみこむ。

その姿を望遠鏡でみつめながら、グリーンフィールド・クラブロス氏はオリュンボスの変身を待ち望んでいる。

しかし彼にはその姿を鮮明なまま維持することができない。

一瞬、目を細めて、まぶしさにくらんだ瞳がふたたび輪郭や色や陰影を正確にとらえるようになるのを待たなければならない。

ただ同時に、想像力が借物の装いを脱ぎすて、書物から得た知識をひけらかすのを諦めるようになるまで待たなければならない。

もし想像力がほんとうに視力の弱さを助けるものなら、それは、視線によって点火されるような、即効性のある直接的なものであるはずだ。

ではどれが最初に彼の脳裏に浮かんで、そぐわないからという理由で脳裏からふりはらわれた比喩だったのだろうか。

さっき彼が居並ぶ衛星を引き連れてゆれる木星を見たときは、縞模様のある、まるまると太った深海魚が冷たい光を放ち、その鯉からちいさな気泡が昇っているように……

次の晩、グリーンフィールド・クラブロス氏はまたテラスに出て、肉眼で惑星を見直してみる。

大きな違いは、ここでは、惑星と暗闇の至る所に点在する残りの星空と、そしてそれを眺める自分との大きさを考慮に入れねばならない点である。

関係がレンズで遠くにとらえられた惑星という客体と彼という主体の間の、差し向かいの幻覚の中でのことなら、起こりえないことである。

同時に彼は、ひとつひとつの惑星について昨日の晩に見た細部にわたる姿を思い浮かべ、その姿を夜空に穿つぼんやりとした光のしみに接ぎ合わせてみる。

そうしてほんとうに惑星が自分のものになることを願うのである。

それが叶わないのなら、せめて惑星のどれか一つでも、自分の片方の眼の中に飛び込んできてくれたらいいのにと思っている。
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2010年05月20日

グリーンフィールド・クラブロス氏空を見る

昼下がりの月を眺める者などいやしない。

まだ月の存在がおぼつかない、そんな時こそ、なおのことわたしたちの関心が求められているのかもしれない。

強烈な陽の光を浴びる空の濃い碧から顔をのぞかせるひとつのほの白い影、それが今度もきちんと形を整え輝きを帯びると誰が保証してくれるというのか?それほど壊れやすく淡く頼りなげなのだ。

ある一角だけが鎌の弧に似た輪郭をくっきりと帯びはじめても、残りはまだ空色にすっかり呑み込まれたままである。

透明なオブラートか溶けかけのドロップかなにかのようだ。

けれど、ここでは白い円環が壊れていくのではなく、濃度を増しつつあるのだ。

くすんだ青い斑点や陰り、月の地理に属するものなのか、それともまだ海綿体状の多孔質な惑星が染みこんだ空の汚れなのか判然としない、くすんだ青い斑点や影を取り込み凝集してゆく。

この局面において、空はまだ何かかなり稠密で明確なもので、その途切れることのない張りつめた表面から、あの白い光を放つ円い形、雲よりはかすかに堅固な実体を有する形が分離しつつあるのだとか、あるいは、逆に、背景の組織が崩壊し、円蓋がほつれ、背後に開くひとすじの裂け目となっているのだといった確信がもてるわけではない。

このおぼつかなさは、ある部分(太陽光線が他より強く射している箇所)では隆起を際立たせつつ、他の部分では、一種、薄闇に紛れている陰影のむらのせいで浮かび上がってくる形の不規則性によって一層増してくる。

そして、このふたつの領域の境界が定かでないために、結果として、遠近法のなかでとらえられる固体ではなく、むしろ、白い輪郭がくすんだ小円の内部で分離している月の百態のひとつのようにみえてしまうのだ。

この点について、満月やそれに近い月ではなく、上弦の月を対象に考えれば、何の異論もないだろう。

実際、上弦の月は、次第次第に空との対比が強まり、その境界線が西の端にかすかなへこみを伴なってくっきりと描かれるようになると、姿を現わすのである。

空の碧がすこしずつ茜色から紫色へと(陽の光が赤味を帯び)、やがてくすんだ赤や暗褐色へと移ってゆく。

色調が変わる度に、月の白さがくっきりと浮かび上がり、内部のいちばん輝く部分がひろがりを増し、ついには円蓋を覆い尽くしてしまう。

その様子は、まるで、ひと月かけて月がたどる諸相が、円形全体がおおむね眺められるという違いはあるにしても、この満月というか上弦の月の内部において、出没の時間の中でたどりつくされるかのようだ。

円環の中には常に斑点がある。

それどころか、その陰影は残りの部分の輝きとの関係によって一層際立っている。

しかし、それらの青白い癒というか溢血斑のようなものを引き連れているのが月であることは疑いないし、それらを背景の透明な空の青さや、実体のない月のマントのほころびだとか言われても信じられはしない。

むしろ、相変わらず不確かなままなのは、こうして明確さや(いわゆる)輝きを獲得することが、遠ざかるにつれ闇に没してゆく一方の緩慢な空の後退のせいなのか、逆に、まず周囲に拡散した光を集め、空から光を奪い、すべての光を円い漏斗の口の中に掻き集めながらせり上がってくる月のせいなのか、ということだ。

そしてこうした変化のなかで何より忘れてならないのは、まもなくこの衛星が空中を移動し、上方へそして西方へと進みながら消えていくことだ。

月は、目に見える天体のなかでもっとも移ろいやすく、その複雑な習性において最も規則的な天体なのだ。

けっして約束を違えはしないから、いつだって待ち伏せることができるけれど、どこか一箇所に置き忘れたままにしておくと、次はかならず別の場所でお目にかかることになる。

ある姿勢でどこかを向いている顔を覚えていても、多少の違いはあってもすぐに向きを変えてしまった後だ。

ともかく、一歩一歩追っていても、感じとれないほどかすかに離れていくのには気づかない。

雲たちだけが、その素早い疾走と変身の幻覚を生みだすのに一役買っているのだ。

あるいは、むしろ、ともすれば視線を逃れがちのものに派手な証を与えるのに力を貸しているのである。

雲が流れ、灰色が乳白色に輝き、背後の空が黒になった。

夜だ。

星たちがまばたき、月は空飛ぶ輝く大きな鏡になる。

その姿に数時間前の姿を見出す者はいるだろうか?今、月は光の湖だ。

あたりいっぱいに光をふりまき、闇の中に凍てつく銀の量をのぞかせ、夜更けに遊びまわる人々を白い光で包みこむ。

これから始まるのは素晴らしい冬の満月の夜にちがいない。

そこで、月がもはや自分を必要としないと確信して、グリーンフィールドクラブロス氏は家路に着く。
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2010年05月02日

宇宙とグリーンフィールド・クラブロス氏

まだ生きている部分もあれば、もうどろどろになって、他の植物の栄養になる腐植土になっている部分もあって………草原は草の集合である―こう問題を設定すべきなのだ―この集合は、栽培される草の属集合と雑草とよばれる自生の草の属集合とを包含する。

ふたつの属集合が交差するのは、種類からいえば栽培される草に属するために、それと見分けのつかない自然発生的に生まれた草によってである。

ふたつの属集合は、それぞれさまざまな種類を含み、その種類の一個一個がひとつの属集合なのである。

あるいは、本来草原に属している草の属集合と、草原とは無関係な草の属集合とを包含する集合だといった方がいいかもしれない。

風がふいて、種や花粉が舞うと、集合間の関係は乱れ………グリーンフィールドクラブロス氏の思いは、さっきから別のところに流れている。

わたしたちが見ているものが草原なのだろうか、それとも、一本また一本と草を見ていることが………?「草原を見る」とわたしたちが言っているのは、おおまかで曖昧なわたしたちの感覚の効果にすぎない。

集合というものは、明確な諸要素によって形成されている場合にだけ存立するのだ。

数など数えている場合ではないのだ。

数などどうでもいい。

肝心なのは、一目見ただけで、個々の草木の特徴も違いも、そのひとつひとつをとらえることだ。

しかも、ただ見るだけではだめなのだ。

考えることだ。

「草原」のことを考えるのではなく、あのシロッメクサの双葉のついている茎のことを、すこし猫背のあの槍状の葉や、あの細い散房花序のことを………グリーンフィールド・クラブロス氏は雑草を抜くのも忘れて、ぼんやりしている。

もう草原のことなど考えてもいない。

宇宙に思いをはせているのだ。

草原について考えたことを全部宇宙にあてはめてみようとしているのである。

宇宙、それは、整然と規則正しい天体なのか、それとも、混沌とした拡散なのか。

おそらくは有限な、だが、その内部にまた別の宇宙がいくつも口を開き、境界の定まらない無限の宇宙。

宇宙は集合なのだ、天体や星雲、宇宙塵、複数の力場、場の交差部分、いくつもの集合の集合体からなる………
posted by クラブロス at 02:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月01日

腐りかけた草

キクヂシャが一本、ルリチシャが一本、彼の視界に飛びこんでくる。

彼はそれらを引っこ抜く。

もちろん、雑草をあっちで一本、こっちで一本と引っこ抜いたところで何の解決にもなりはしない。

「正しい手順はこうあるべきなのだ」と彼は考える。

「草原の一画を取り上げる、一メートル四方でいい、そして、シロツメクサにホソムギ、それかハマヒルガオの外にはどんな小さなものもなくなるまで、そこを徹底的にきれいにするのだ。

それから次の区画に移ればいい。

それとも、そうではなくて、サンプルにした一画を動かないことだ。

そこに草の茎が何本あるかを数え、種類や密度、それに分布状況を測定するのだ。

その計算に基いて草原全体の数値が算出されるはずだから、その数値が決まったら………」しかし、草の茎を数えても仕方がない。

総数を知るなんて絶対に不可能だ。

草原には明確な境界線などないのだから。

どこかに草の生えない端があっても、その向こうには、まだ何本か茎がポツポツと生えていて、そのまた向こうには緑の濃い一画があり、さらにまた、もっとまばらな帯状のひろがりがあるものだ。

これも草原の一部なのかどうか?別の所では灌木の茂みが草原に侵入している。

こうなると何が草原で何が茂みなのか区別がつかなくなる。

だが、草しかない所でだって、一体どこまで数えたらいいのかがわからないのだ。

小さな草と草の間には、かならず、地面から顔を出したばかりの葉の幼芽があって、根元にかすかに見える白い肌をのぞかせているからである。

一分前なら見逃すことはできても、すぐにこれも数えなければいけなくなるだろう。

そうこうしている間にも、少し前まではかすかに色あせているようにしか見えなかった二本の茎が、もうすっかりしおれて、計算から除外しなければならなくなってしまうかもしれない。

おまけに、折れたり、地中にめりこんだり、葉脈に沿って裂けたりしている草の茎の切れはしもあるし、葉を失くした小さな葉もあるし………小数の合計が総数にはならないのだ。

腐りかけた草がごく僅か残っているからだ。
posted by クラブロス at 04:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月30日

田舎風草原

草原がそれらしく見えるためには、緑が一面にひろがっていなければならない。

それが、自然の意志に従った草原が当然たどりつく不自然な結果なのである。

タンポポが一本、びっしりと重なりあったギザギザの葉の柄を地面にぴったりはりつかせている。

茎を引っぱれば、それだけが手元に残って、根っこの方は地中にしっかりと残ってしまう。

うねるように手を動かして全体を取ってから、丁寧にひげ根を土から抜かなければいけないのだ。

さもなければ、隣から押し入ってきた草につぶされかかっているヒョロヒョロの葉身を土くれの中からつまみ出す必要がある。

その後で、またその場所に根をおろしたり、種をまき散らすことのないように、この邪魔者を捨てるわけだ。

手はじめにカモジグサを一本抜いてみると、すぐ、ちょっと向こうに一本、もう一本また一本と顔をのぞかせているのが目にはいる。

結局、ちょっと手を加えるだけで済むかに見えたその草のじゅうたんの裾野が、実は、密林の無法地帯であることが明らかになる。

後に残るのは雑草ばかりなのだろうか?もっと悪いのは、善良な草に隙間なく絡みついているせいで、手を突っ込んでも悪者の草が抜けないことである。

どうやら、種をまいた草と野生の草との問に、なにか複雑な了解が形成されているらしい。

出自の不公平からくる障害を緩和するとか、破壊も止む無しと黙認するとかいったようなものが。

自生の草も中には、それ自身は、まったく意地が悪そうでも、ずる賢くもなさそうなのもある。

では、それを正当に草原に所属する草の数の内に迎え入れ、栽培している草の仲間に加えてやらないのは何故なのか?それが、「英国式草原」を捨て、やがては荒れ放題の「田舎風草原」へと後退することにつながる道だからである。

「早晩こうした選択を迫られるときがくるはずだ」と グリーンフィールドクラブロス氏は思うのだが、それでは彼の自尊心が許さないような気がする。
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2010年04月29日

サーフボード

グリーンフィールド・クラブロス氏は潜って泳ぐ。

顔を出してみると、そには、剣が!かつて、眼球がひとつ、海面に顔をのぞかせたとき、以前からそこでその出現を待ち構えていた剣は、ついに、鋭い剣先のほっそりとした美しさと、まばゆいばかりの輝きを誇らしげに見せることがかなったのだ。

それは、剣と眼球とが互いに互いを生ぜしめたのだ。

そしておそらく、眼球の誕生が剣を生んだのでも、その逆でもない。

なぜなら、剣にとって、頂点で自分を見つめる眼球の存在は不可欠のものだったのだから。

グリーンフィールド・クラブロス氏は、自分が不在の世界に思いをめぐらす。

彼が生まれる前の荒廃した世界と、彼の死後のはるかに暗い世界とを思う。

無数の眼が、ありとあらゆる眼が生まれる以前の世界を思い描こうとする。

そして、未来を、大災害によってか、あるいは緩慢な崩壊によってなのか、盲目と化した世界をも想像してみようとする。

その世界では、一体、どんなことが起きる(起きた・起きようとしている)のだろうか?

そのとき、ちょうど一条の光の矢が太陽から放たれ、おだやかな海に反射して、かすかなさざ波の下できらめき、物は光に染まり、生命の織物のなかでひと際鮮やかにみえ、そして、ふいに、ひとつの眼が、いや、無数の眼が、増殖し、ふたたび生き生きとしてくる。

サーフボードは、もうみんな岸に引蕩げられ、寒さに震える―グリーンフィールド・クラブロスという名の―最後の海水浴客も水から揚がる。

自分がいなくても存在しつづけることを彼は確信しているのだ。

ようやくタオルで体をふきおえたグリーンフィールド・クラブロス氏は、家路につく。
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2010年04月28日

グリーンフィールド・クラブロス氏と、はてしない草原

グリーンフィールド・クラブロス氏の家のまわりには草原がある。

草原があって当たり前というような場所ではない。

だから草原といっても、自然の生物つまりは雑草から成る人工的なものである。

この草原の目的は自然を表現することにあるが、その表現が成立するのは、場所という本来の自然に、それ自体は自然だが、その場所との関係からいえば人工的な自然が取って代わるからである。

要するに金がかかるのだ。

際限のない出費と労力がこの草原には必要なのだ。

種まき、撒水、施肥、害虫駆除、草刈、何をやるにしてもである。

草原は、ハマヒルガオとホソムギ、それにシロツメクサからでぎている。

それが均等に混ざるように、この土地に種をまいたのである。

地面を這う、ちっぽけなハマヒルガオは、すぐに他を圧倒してしまった。

一面に広がる丸くてやわらかな小さな葉のじゅうたんは、踏み心地もいいし、眺めもいいものだ。

しかし、草原に量感を与えているのは、まばらすぎたり、刈り込みもされずに伸び放題ででもないかぎり、槍のように尖ったホソムギの葉である。

シロツメクサは、気まぐれに顔をのぞかせている。

こちらに二かたまり、あちらは皆無、ずっと向こうは一面海のよう、といった具合である。

てっぺんにあるプロペラ状の葉の重みで、そのきゃしゃな茎がたわみ、ぐにゃぐにゃになるまでは、たくましく成長する草なのだ。

ブルルッ、耳をつんざくような音を立て草刈り機が草を刈り込んでいく。

刈り取られたばかりの干し草のやわらかな匂いが大気を酔わせる。

刈り揃えられた草は、頑なだった幼い頃を思い出す。

だが、鋸刃が通ると、草の薄くまばらな所や黄色の染みがあちこちに顔をのぞかせ、草原が途切れ途切れなのがわかる。
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2010年04月27日

口笛

口笛しか吹けない方がどれだけましだろう、と彼は考える。

その方が、人間の行動とそれ以外の世界との矛盾に常に悩まされてきたグリーンフィールド・クラブロス氏にとっては、はるかに明るい見通しが開けるというものだ。

だから彼には、人間とクロウタドリの口笛が同じだということが、奈落に投げかけられた一本の橋のように思えるのである。

もし人間が普段言葉に託していることすべてを口笛に委ね、クロウタドリが、言葉にならないその習性を残らず口笛で語ったとしたら、その時こそ、第一歩が記されるにちがいない。

分離を埋めるためのだが、何と何との分離なのだろう?自然と文化だろうか?沈黙と言葉?言語で表現しうる以上の何かを沈黙がはらんでいればいいのに、とグリーンフィールド・クラブロス氏はいつも思う。

一体、言語表現は、存在するものすべてが目指す到達点なのだろうか?それとも、有史以来、存在するものすべてが言語表現だったのだろうか?ここまで考えると、またグリーンフィールド・クラブロス氏には悩みの種が生まれる。

クロウタドリの口笛に注意深く耳を傾けた後で、彼はできるだけ忠実にそれを繰り返してみる。

彼のメッセージは念入りに調べる必要があるとでもいいたげに、あやふやな沈黙が後につづく。

それから同じ口笛がこだまする。

グリーンフィールドクラブロス氏には、それが自分への返事なのか、それとも、似ても似つかない彼の口笛などお構いなく、何事もなかったかのようにクロウタドリが仲間同士の対話を再開した証しなのかがわからない。

口笛を鳴らし、彼とクロウタドリのあやしげな問答はつづく。
posted by クラブロス at 07:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ガラス球のような眼球

「これがわたしの棲み家なのだ」と、グリーンフィールド・クラブロス氏は思う。

「是非の問題ではない。なにしろ、この中でだけわたしの存在は可能となるのだから」だが、この地上での一生の運命がすでに定められているのだとしたら?死への傾斜があらゆる回復の可能性よりも強くなっているのだとしたら?おおきな波頭がひとつ、岸に打ち寄せ、砕け散る。

そこには、砂と小石、海草や細かな貝の破片しかないようにみえるのに、波が引くと、後には、空缶、果物の種、避妊具、死んだ魚、プラスチックの瓶、こわれたサンダル、注射器、油カスで黒くなった銅線などが姿をあらわす。

モーターボートの波にさらわれ、漂うゴミの大波に転覆させられて、グリーンフィールド・クラブロス氏自身もまた、突然、漂流物に混じって自分もひとつの漂流物だと感ずる、無数の墓地からなる大陸のゴミ捨場と化した浜辺に転がる一個の死体だと。

もし、死老たちのあのガラス球のような眼球のほかに、この地球上では二度と眼球は開かれないのだとしたら、剣が輝きを取り戻す日は二度と訪れないだろう。

よく考えてみれば、こうした状況は、何も目新しいものではない。

すでに、何世紀も何百年もにわたって、太陽の光は、その光をとらえることのできる眼球が存在する以前から、海面上に注がれてきたのだ。
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2010年04月26日

グリーンフィールド・クラブロス夫妻の対話

だが、話をつづけ話題を変えることで、自分が夫とはくらべものにならないくらい、クロウタドリと気楽で気のおけない間柄にあるのを示そうとしているのだ。

いずれにしても、こんなやりとりの中からグリーンフィールド・クラブロス氏は漠然とした安心感を得るのであり、その点では妻に感謝しているのである。

今のところ、これといった心配事は何もないと彼女が保証してくれるおかげで、彼は自分の仕事(あるいは擬似労働、もしくは過剰労働)に没頭していられるのだ。

一分ばかりやりすごしてから、彼の方も、仕事(あるいは中間労働、もしくは超越労働)がいつも通り進行していることを妻に知らせるべく、何か安心感を与えるようなメッセージを投げかけようとする。

そのために彼は、しきりに鼻をならしたり咳払いをしたりする。

「………いかんな………それでもだ………最初から………そうだ、馬鹿げてる………」全体をつなぎ合わせると「ぼくはとても忙しいのだ」というメッセージをも伝えるこの発言は、先ほどの妻の言葉に、「あなたも少しは庭に水をやることぐらい気にしてくれたっていいじゃないの」といった類の軽い非難がこめられている場合に備えてのものである。

こんな 口葉のやりとりの前提となっているのは、夫婦間の意志疎通が完壁なら、くだくだとその場で事細かにすべてをはっきりさせなくても相互理解は可能だという考え方である。

しかしながら、この二人の場合、この原則はかなり変則的に適用されている。

グリーンフィールド・クラブロス夫人は完全な文で表現をするが、それが往々にして暗示的というか謎めいているのは、夫の精神的参加の迅速さと、自分と夫との思考の一致(これは必ずしも常にうまくいくわけではない)とを試すためなのだ。

グリーンフィールド・クラブロス氏の方は、ぼんやりとした心の中のひとりごとからポツリポツリ言葉が立日になって浮かび上がってくるのに任すことにしている。

それが完全な意味を明示しないまでも、気持ちの濃淡ぐらいは表わしてくれると楽天的に構えているのだ。

ところがグリーンフィールド・クラブロス夫人は、そんなつぶやきをまともな話として受けとめようとはせず、そんな気がないのを強調するかのように、声をひそめてこう言うのである。

「シッ………!鳥がびっくりするじゃないの………」静かにしろと文句を言うのは当然自分の方だとばかり思っていた夫に、制止の言葉を浴びせることで、自分が一番クロウタドリに注意をはらっていることを改めて確認しているのだ。

こうして自分の有利な立場をはっきりさせると、グリーンフィールド・クラブロス夫人は立ち去ってゆく。

草をついばんでいるクロウタドリは、きっと、グリーンフィールド・クラブロス夫妻の対話も自分たちの口笛と同じものだと思っているにちがいない。
posted by クラブロス at 02:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月25日

太陽スペクトルとグリーンフィールド・クラブロス氏

グリーンフィールド・クラブロス氏はもう泳ぐ気がなくなった。

寒いのだ。

だが彼は泳ぎ続ける。

今となっては、陽が姿を消すまで水の中にいることが彼の義務なのだ。

そこで彼は思う。

「わたしが反射光を見て考え、そして泳ぐのは、一方の端にその光線を放つ太陽があるからだ。

肝心なのは、この事実の起源だけなのだ。

わたしの視線が支えきれない何ものかとは、この日没という衰弱したかたちに外ならない。

あとはすべて、わたしを含めた無数の反射光のなかで反射しているだけなのだ」ヨットが一隻、まぼろしとなって過ぎてゆく。

つっ立った人影がまぶしい岩影をかすめてゆく。

「風がなければ、ビニロンと、人間の骨と筋肉と、ナイロンの帆脚索とがぐるになって仕掛けたこのワナも役に立ちはすまい。

本来の目的と意図とを備えたかにみえる小舟に仕立て上げるのは、風なのだ。

風だけが、サーフ・ボードとサーファーの行くえを知っているのだ」と、彼は思う。

あらゆる原因を解明しうる原理を確信することで、疑い深いばらばらの「私」を消すことができたら、どんなに心が安まることだろう。

それは、行為や形態の起源となる唯一絶対の原理?それとも、一定数の明確な原理、一瞬ごとに、ただひとつ姿をあらわし世界にひとつのかたちを与え、交差しあう力の方向なのか?「風と、それに海もだ、わたしやサーフ・ボードのように海面に浮かび漂う固体を支える水の塊も」じっと仰むけになってグリーンフィールド・クラブロス氏は考える。

逆転した彼の視線は、今度は、漂う雲の群れや、雲に覆われた森の丘に注がれている。

彼の「私」も、基本原則に逆転が生じる。

青い炎、あわただしく動く大気、水がゆりかごなら、大地はその支柱になる。

これが自然というものだろうか?しかし、彼に見えるものは、どれひとつ自然な存在ではない。

太陽は沈まないし、海は海の色をしていない。

ものの形は光が網膜に投影するものだ。

手足の不自然な動きによって彼は太陽スペクトルのなかに浮かんでいるのだ。

不自然な姿勢の人間の輪郭が、体重を移動させるために利用するのは、風ではない、風と人為的装置と角度の幾何学的抽象作用なのだ。

それによってなめらかな海の表面をすべっていくのだ。
posted by クラブロス at 07:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

クロウタドリ

クロウタドリの口笛には特徴がある。

人間の口笛、それもあまりうまくはない人間がやむを得ず精一杯鳴らす口笛、続けて鳴らす気のないひと吹きだけの口笛にそっくりなのだ。

きっとやさしく耳を傾けてもらえると信じているかのように、はっきりと、だが耳やわらかに慎しく鳴る口笛と同じなのである。

すこし間を置いて口笛は繰り返される―同じクロウタドリでなければ、その連れ合いのものだ。

だがいつも、ふとはじめて口笛を鳴らそうという気になったとでもいうように、掛け合いのときでも、応えがかえる前にはその都度長いこと考える間が置かれる。

それでも対話にはちがいない。

でなければ、クロウタドリはそれぞれが相手に向けてではなく、自分のために口笛を鳴らすのだろうか?そして、いずれにしても(相手もしくは自分に対する)応答になっていて、いつも同じなにか(自分の存在、種や性やテリトリーへの所属)を確認しているのだろうか?多分、このたったひとつの言葉が価値をもつとすれば、それは、この言葉が長い沈黙の間も忘れられることなく、口笛となって相手の口ばしから繰り返されるからかもしれない。

それとも、対話全体が相手に「俺はここにいる」と告げるためのもので、休止の長さは、この言葉に、いわば「俺はまだここにいるぞ、相変わらずね」とでもいうような、「まだ」の意味を付け加えるものなのかもしれない。

するとメッセージの意味は口笛のなかにではなく、休止のなかにこめられているのだろうか?クロウタドリが交す会話は沈黙のなかにこそあるのだろうか?(この場合、口笛は「この文終わり」の文句のように、単なる句読点の記号でしかない)ひとつの沈黙は、別の沈黙と同じにしか思えないのに、百通りもの異なる意志を表現できるのかもしれない。

ひと吹きの口笛だってそうかもしれない。

対話は可能なのだ、沈黙によっても、口笛ででも。

問題はお互いが理解し合うことだ。

もしかしたら他の誰かを理解するなんて誰にもできないのかもしれない。

クロウタドリはそれぞれが自分にとって大事な意味内容を口笛に込めたと思いこんでいても、それは自分だけにしかわからないのかもしれない。

相手は自分が言ったこととは何の関係もない何かを返すのかもしれない。

これは耳の不自由な人同士の対話なのだ。

始めも終わりもない会話なのだ。

だが人間同士の対話がこれとは別物だといえるだろうか?庭にはグリーンフィールド・クラブロス夫人の姿もある。

オオイヌノフグリに水をやっているところだ。

「ほうら」と夫人が言う。

間のびした(夫がすでにクロウタドリを見つめているのを薄々感じ取っているのかもしれない)ような、でなければ(夫はまだみつけていないのかもしれない)理解しがたい言葉である。

ともかくもクロウタドリの観察に関しては自分に優先権があると念を押すつもりなのか(なにしろクロウタドリを最初に発見して、彼らの習性を夫に知らせたのは、実際、彼女の方だったのである)、これまで何回となく彼女が記録してきた彼らの出現の確実性を強調しているつもりなのかもしれない。

「しっ」

グリーンフィールド・クラブロス氏は言う。

表面上は、妻が大きな声を出して彼らを驚かせないように(グリーンフィールド・クラブロス夫妻の存在にも話し声にも慣れっこになってしまったクロウタドリのつがいには余計な心配である)するためだが、本心はといえば、彼女よりはるかに自分の方がクロウタドリに熱心なのだと示してみることで、妻の優位に異議を唱えるためである。

するとグリーンフィールド・クラブロス夫人が言う。

「昨日やったばかりなのに、また乾いてしまって」これは、今、水をやっている花壇の土を指しているわけだから、それ自体無意味な伝達である。
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解体した世界

自然は存在しないのだろうか?

グリーンフィールド・クラブロス氏の泳ぐ「私」は、解体した世界のなかに沈んでいる。

力の場の交叉点、ベクトル曲線、収束し拡散し屈折する直線の束。

しかし彼の内部では、すべてがそれとは別の在り様のまま残存している。

なにか、もつれのようでもあり、血塊のようでも、閉塞部のようでもある。

ありうるかもしれないが実際には存在しない世界のなかで、確かにここにいるのに、いないのかもしれないという感覚があるのだ。

波頭がひとつ静かな海を波たたせる。

モーターボートが一隻、油をまき散らし、平たい腹で跳ね上がりながら、視界に飛びこんできて走り去る。

ナフサの油膜で玉虫色をした反射膜が水面下を漂いながらひろがってゆく。

まぶしい太陽の光にはないその物質的堅固さは、人間という肉体存在が描く軌跡によって揺らぎはしない。

走り去った跡に、燃料廃棄物や燃えカスやらをまき散らし、自分のまわりで生と死とを混ぜ合わせ膨らませてゆくのだ。
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2010年04月24日

グリーンフィールド・クラブロス氏とクロウタドリの口笛

グリーンフィールド・クラブロス氏にはこんな幸せがある。

存分に鳥の歌声の聴ける土地で夏をすごすことだ。

デッキチェアに寝転んで「仕事をしている」(実際、彼にはもうひとつ幸せなことがある。

どうみても休んでいるとしか言口いようのない場所や態勢ででも仕事をしているといえることだ。

もっとも、倉の朝、木蔭に寝転んでいるときでさ柔けっして仕妻やめるわけにいかないということになれば、これは罰を受けているといった家よいのかもしれない)。

すると、枝影に隠れた小鳥たちが彼のまわりで実に多彩豊・色の天雛を繰りひろげ、むらのある荒削りの異様な音響空間の中に彼を包みこむ。

だが、さまざまな音色同士の間には、ある均衡が保たれている。

音色のどれかひとつが他より強すぎたり頻繁に聞こえたりすることはなく、すべての音が、ハーモニーならぬ軽やかさと透明感に支えられ、そろって一本の均質な縦糸を織り上げる。

それは、一日の暑い盛りに、いつも決まって蝉たちが休みなくやかましい槌音で時空間を占領した後、おそろしいほど彩しい虫たちが、あたりの音に絶対的な支配を確立するまで続くのである。

鳥たちの歌声はグリーンフィールド・クラブロス氏の聴覚のなかで変わりやすい部分を占めている。

背後の静寂を構成する一要素として敬遠することもあれば、心を集中して一声一声を聞き分け、複雑になる一方の分類に当てはめようとすることもある。

鋭く短いチチというさえずり、長短二音のトリル、短く震えるツグミのさえずり、キョッキョッというアトリのさえずり、高音から低音へと流れるようにきてピタッと止む鳴声、くるくると同じ抑揚を繰り返す鳴き声、そして震えるようなさえずり等々。

もうすこし整然とした分類にグリーンフィールド・クラブロス氏が行き着くことはない。

一声聞けばそれがどの鳥のものか分かるといった類の人間ではないからである。

そういう自分の無知を彼は何か罪のように感じている。

新しく人類が獲得しつつある知識は、口頭による直接伝達でだけ伝播され、一旦失われれば二度とふたたび手に入れることも伝えることもできない知識を償うものではないのだ。

幼いとき、鳥たちの歌声に耳を澄まし、飛ぶ様に目を凝らしていると、その場ですかさず誰かが鳥たちの名を教えてくれる、そんな風にしてしか学べないことを教えてくれる書物などありはしない。

これまでグリーンフィールド・クラブロス氏は、命名や分類の正確さを崇拝することよりも、音や色の変化や形の組み合わせを定義するという、あやふやな正確さを絶えず追い求めてきた。

だが今の彼なら逆の選択をするだろうし、鳥たちの歌声に呼びさまされた思考の流れに素直に従えば、彼の人生は機会を逸することの連続だったような気がしてくる。

どんな鳥の鳴声に混じってもすぐそれと分かるほど目立つのがクロウタドリの口笛である。

クロウタドリは午後遅く二羽でやってくる。

つがいに違いない。

前の年と同じやつなのだろう。

毎年、この季節になると姿をあらわすのだ。

午後になると決まって、自分の到着を知らせようとする人間の口笛のような二音からなる呼び声が聞こえてくる。

グリーンフィールド・クラブロス氏は顔を上げ、自分を呼ぶ相手をさがしてあたりを身回す。

その後でクロウタドリの時刻だと気がつくのである。

素早く彼は姿をとらえる。

本当なら二本足に生まれつくのが神の覚し召しだとでもいうように草の上を歩きまわりながら、人間の真似をするのを楽しんでいるようにみえる。
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2010年04月23日

恋の季節

中庭に亀が二匹

雄と雌。

ガチャ!ガチャ!甲羅がぶつかりあう。

恋の季節だ。

グリーンフィールド・クラブロス氏は隠れて様子をうかがう。

雄が脇から雌を押し、歩道の少し高くなった所まで転がしていく。

攻撃に抵抗しているのか、雌はなにやら億劫らしく、自分では動こうとしない。

体の小さい雄の方が積極的だ。

雄の方が若いのかもしれない。

繰り返し後から雌にのしかかろうと試みるのだが、雌の甲羅の背が傾斜しているせいですべり落ちてしまう。

今度は、どうやら正しい位置に落ち着いたらしい。

休み休み規則正しく体を押しつけている。

一撃ごとに人の叫び声にも似たあえぎがもれる。

雌は前脚を平たく地面につけるように伸ばしているせいで、尻が持ち上がっている。

雄は頸を前に突き出し、雌の甲羅に前脚でつかまり、口を開け身をのりだしている。

甲羅同士の場合、厄介なのは、どこにも前脚がひっかからないために、相手につかまる方法がないことだ。

今度は雌が逃げ、雄がそれを追いかけている。

雌の方が素早いわけでも、断固逃げようとしているわけでもない。

雄は雌をひきとめようと、前脚を、それもかならず同じ前脚を軽く何度も噛む。

雌は抵抗しない。

雌が動きを止める度に雄はのしかかろうとする。

だが雌がちょっと前進すると、雄はすべり落ち、ペニスを地面に叩きつけてしまう。

ペニスの長さはかなりのもので、鈎状になっていて、いってみれば、そのおかげで雄は互いの甲羅の厚さや取る位置が悪くて離れてしまうにしても、雌をとらえることができるわけだ。

こんな風にして突撃を繰り返したところで、そのうちいくつが首尾よくいって、いくつが失敗に終わるのか、いくつが単なる遊びや見世物なのかはわからない。

夏の中庭は殺風景で、片隅にあおいジャスミンがあるだけだ。

そんな庭の中を、追いかけたり逃げたり、前脚ならぬ甲羅でガチャガチャとくぐもった音を立て小競り合いを繰り返しながらぐるぐるまわる、これが求愛行動なのだ。

雌がジャスミンの茎の間に忍びこもうとしている。

それで姿が隠れると思っているのだ――それとも、そう思わせたいのかもしれない。

だが、そうするのが、実際には、身動きしようにも逃げ場もなく、雄に釘づけにされる一番確実な方法なのだ。

こうなると今度雄の方がペニスを首尾よくおさめられるか怪しくなってくる。

しかし、今度は二匹とも物音も立てずただじっとしている。

交尾する二匹の亀はどんな気持ちなのだろう、グリーンフィールドクラブロス氏には想像もつかない。

冷静に目を凝らして観察してみる。

相手は二台の機械、交尾プログラムを組み込まれた二台の電子仕掛の亀だというように。

甲皮のかわりに、金属の骨格に金属片のペニスだとしたら、エロスとは何なのだろうか?だが、わたしたちがエロスと呼ぶものも、もしかしたら、わたしたちの肉体という機械に備わる少しばかりの複雑なプログラムのことなのかもしれない。

というのも、皮膚細胞のひとつひとつ、肉体組織の分子一個一個から記憶がメッセージを集め、それらを視覚によって伝達される刺激や想像力によってかきたてられる刺激と組合わせることによってぞうふくさせるからなのだろうか?違いはといえば、連動する回路の数だけでなはいか。

わたくしたちの受信器からは何十億もの回線がはりめぐらされていて、それが感情や状況や、人間関係のコンピューターに連結していて…………エロスとは、頭脳が電子的に交錯しながら展開するひとつのプログラムなのだ。

しかし頭脳も皮膚であることにかわりはない。

触れられ、見つめられ、記憶される皮膚なのだ。

では、感覚の無い器れ物に閉じこめられている亀はどうなのだろう?感覚的刺激の貧しさは、ひょっとしたら激しく濃密な精神生活を否応なく亀に強いるのかもしれない、なにか透明な内面認識をもたらすのかももしかしたら亀のエロスは絶対的な精神の規律に従っているのかもしれない。

それに対してわたしたちはといえば、作動の方法もわからない機械の虜なのかもしれない、停止や故障を繰り返す制御のきかない無意識的動作に身を任せる主体なのかも………亀の方が、自分のことをよく理解しているのだろうか?一〇分ほど交尾してふたつの甲羅は離れる。

雌は前に、雄は後ろにと、ふたたび草叢をぐるぐるまわっている。

雄はさっきより距離を置いて、時折、一本の脚で雌の甲羅に爪を立てては軽くその背中にのせようとするが、たいして本気ではない。

二匹はシャスミンの下に戻ってくる。

雄が雌の足を軽く噛む、それも決まって同じところを。
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2010年04月22日

泳ぎながら考える

ひとりひとりが自分の反射光をもっているわけだ。

その方向は本人だけに示され、本人と一緒に移動していく。

反射光の両側では海の青さが深くなる。

「これが、誰にも共通する、たったひとつの幻覚ではない事実、闇なのだろうか?」グリーンフィールド・クラブロス氏は自問してみる。

だが、この剣は各人の視線を等しく引きつけるし、そこから逃れる術はない。

「共有するとは、まさしく各人に自分ひとりだけのものとして与えられることをいうのだろうか?」ウインド・サーフィンが海の上をすべる。

この時刻に陸から吹く風を斜めに突切って行く。

直立した人影が帆の下桁を弓を射るように両手をいっぱいにひろげて支えると、帆ははちきれそうに大気をはらむ。

反射光を横切るとき、色とりどりの帆は、それを包みこむ黄金色のただ中で、やわらいでみえ、影になった肉体の輪郭は夜の闇のなかにわけいっていくようだ。

「こんなことが起きるのは、海の上でもなければ、太陽の光のなかででもない」グリーンフィールド・クラブロス氏は泳ぎながら考える。

「そう、わたしの頭の中で、眼と脳とを結ぶ回路で生じていることなのだ。

わたしはいまわたしの頭の中を泳いでいるのだ。

太陽の剣が存在するのは、そこしかない。

わたしを魅きつけるのは、まさにこの点なのだ。

これは、わたしにとって欠くことのできない、ともかくもわたしが認識しうる唯一の要素なのだ」だが彼はこうも考える。

「剣に手は届かず、常に眼の前にあるわけだから、剣はわたしの内部に共存しているはずはないし、わたしが泳いでいるのは、その剣ならぬ何ものかの中だということになる。

わたしに剣が見えるのであれば、わたしは剣の外部にいて、剣は、相変わらず外部にあることになってしまう」水をかく腕の力が、疲れで、おぼつかなくなってきた。

ということは、彼の思考全体が、反射光のなかを泳ぐことの快感の高まりに反して、それを台無しにしつつあるわけだ。

快感のなかで、限界やら、過失やら非難やらを彼に感じさせるのだから。

しかも、なにか逃れ難い責任感すら感じさせるのだ。

ただ彼がそこにいるという理由だけで、剣は存在するのだ。

もし彼がそこを立ち去れば、もし海水浴客全員が浜辺に引き揚げるか、太陽に背を向けるかすれば、剣の先はどこに向くのだろうか?解体する世界のなかでは、彼が救いたいと願うものがもっとも壊れやすいのだ。

彼の眼差しと沈みゆく夕陽との間に架かる海の橋が。
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2010年04月21日

宇宙全体

やがて、反対に向かう波と衝突を繰り返すうちに、徐々に力が剃がれ、ついには姿を消してしまう。

あるいは力を歪めて、おびただしい斜めの波のどれかに紛れて、浜辺にもろともあたって砕けるのである。

ひとつの局面に注意を集中していると、そればかりが目について全体の構図が浸食されてくる。

絵のなかにも、目を閉じただけで、次にふたたび目を開いてみると構図が一変してしまうものがあるが、それと同じことである。

今、あちこち方向を変えながら波頭が交錯する中、全体の構図は、現われてはすぐ消、兄る幾つもの四角形に寸断されている。

もうひとつ、返し波にも突発的な波を遮るだけの力があることも考、兄に入れておかなければなるまい。

そこで、この後退の力に注目していると、本当の運動は岸から起きて沖に向かうのだと思えてくる。

グリーンフィールド・クラブロス氏が今まさに辿り着こうとしている真の結論は、もしかしたら、逆方向に波を走らせ、時間を逆流させ、慣れ親しんだ感覚や精神の彼方にある世界の真の本質を垣間見せてくれるものかもしれない。

いや、軽いめまいを感じるようにはなったけれど、それだけだ。

岸に向かって波を押す根気強さが勝ちを譲ったのである。

事実、波はどれも相当大きくなっている。

風向きが変わろうとしているのだろうか。

気をつけないと、グリーンフィールド・クラブロス氏が細心の注意を払ってなんとか寄せ集めたイメージが粉々に砕け散って台無しになってしまう。

あらゆる局面を同時に頭に入れておくことができて、はじめて彼は作業の第二段階を開始することができるのだ。

その認識を宇宙全体に広げるのである。

忍耐を失わないようにさえすればよいのだ。

きっと遠からずそのときはやってくる。

グリーンフィールド・クラブロス氏は浜辺に沿って遠ざかっていく。

苛立っているのはやって来たときと同じだが、さっきよりもっとあらゆることに自信を持てなくなってしまった。


posted by クラブロス at 04:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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