今年は四月いっぱい、肉眼で(近視で乱視の彼でさえ)みることのできる《外》惑星が三つとも衝の位置にあり、その全部が夜通し眺められることを知って、
グリーンフィールドクラブロス氏は急いでテラスに出る。
澄みきった満月の夜空だ。
白い光に包まれた巨大な月の鏡のすぐ隣にあるというのに、火星はしつような輝きをたたえ堂々とせりだしてくる。
その濃厚で凝縮された黄色は星空にうかぶ他のどの黄色とも異なり、最後には赤と呼ぶのがふさわしい色になる。
そして霊感を受けたときには、ほんとうに赤く見えるのである。
視線を下げ、東の方のじょうぎ座と乙女座のスピカを結ぶ(もっともスピカはまず見えないので)架空の弧を追っていくと、白く冷たい光をたたえた土星がかなりくっきり浮かび上がる。
そのさらに下方には木星が、最高に輝くときには、力強く黄色い緑がかった光を放つ。
その周辺の星たちはどれもみな青白いが、うしかい座のアークトゥルスだけは極東のやや高方で挑むように輝いている。
惑星の三重衝をもっと楽しむために欠かせないのは、望遠鏡を手配することである。
グリーンフィールド・クラブロス氏は、有名な天文台と同じ名前がついているせいか、天文学者たちにどことなく親しみを感じている。
だから彼には口径一五センチメートルの望遠鏡に鼻先を近づけることが許されるというわけだ。
科学研究用としては、いささか小さすぎるにしても、彼の眼鏡にくらべれば、これだけでも大した違いである。
たとえば、望遠鏡で見る火星は肉眼で見るよりはるかに面倒な惑星であることが分かる。
伝、兄なければならないことは山ほどあるのに、咳払いの合間のぼそぼそとした話のように、ほんのわずかなことしかはっきりと伝わってこないようなのだ。
緋色の量輪が縁の周りからのぞいている。
望遠鏡のネジを調節して量輪を縮めると、南極の氷の地殻がくっきり見えてくる。
地表には斑点が雲か雲間の隙間のように見え隠れする。
なかに、位置も形もオーストラリアに似た斑点があって、そのオ!ストラリアの姿がはっきりと見えてくるのにつれて、レンズの焦点が合ってくるのがグリーンフィールド・クラブロス氏にはわかる。
だがそれと同時に、それまで見えると思っていた物の影や見なければならないと感じていた物の影が消えかかっていることに気づく。
要するに彼にしてみれば、スキアパレッリ以来、幻想と失望を交互に引き起こしながら、おびただしい言葉が費やされてきたあの惑星を火星と呼ぶとすれば、そのことが、彼のような気難しい人間と何らかの関係を結ぶことを困難にしているように思えるのだ。
(もっとも、気難しいのはグリーンフィールド・クラブロス氏の方ばかりではない。
彼の方は、無駄と知りながらも、天体のなかに逃がれることで、独りよがりにならないように努力しているのだから)。
これと正反対なのが、彼が土星と結ぶ関係である。
この惑星は望遠鏡で眺めたときのほうが深い感動を与えてくれる。
透けるように真っ白で、球体と環の輪郭もくっきりとしている。
球体にはかすかな縞模様が平行に走っている。
やや暗い円周が環の縁を分けている。
この望遠鏡ではそれ以上の細部はまずとらえられないために、かえって対象の幾何学的な抽象性が際立ってくる。
はなはだしい距離感が肉眼で見るときに比べて、緩和されるどころか強調される。
他のあらゆる物体とこんなにも異なる物体が天空をめぐっているとは。
最大限の単純さと規則性と調和とによって不思議の極致に到達している形、これは生と思考に活力を与えてくれる事実ではないだろうか。
「もしも今わたしが見ているのと同じように見ることができたとしたら」と、グリーンフィールド・クラブロス氏は思う。
「古代の人々は、自分の視線がプラトンのイデアの宇宙か、ユークリッドの公準の非物質的空間に届いたと思ったことだろう。
ところが、その姿が、何の手違いか、本当にしては美しすぎるし、現実の世界に属しているにしてはやけに自分の想像の世界に好都合にできている、などと誘む自分のもとに届いている。
だが自分の感覚に対するこの不信の念こそ、わたしたちが宇宙のなかでくつろいだ気分になるのを邪魔するものだ。
もしかしたらわたしが自ら課すべき第一の規則は、自分が見るものにこだわることなのかもしれない」今度は環がかすかにゆれているような気がする。
あるいは環の内側にある惑星の方がゆれているのかもしれない。
それとも両方がそれぞれ自転しているのだろうか。
実のところ、ゆれているのはグリーンフィールド・クラブロス氏の頭の方なのだ。
望遠鏡をのぞくために、どうしても首をひねらなければならないのである。
ただし、まるでそれが自明の真理であるかのように自分の期待にぴったりの、その幻覚から醒めないように、充分気をつけながらではあるが。
実際、土星はこのとおりなのだ。
《ヴォイジャー二号》の打ち上げ以降、グリーンフィールド・クラブロス氏は土星の環について書かれたものは洩れなく読んできた。
顕微鏡的な微粒子から成るという説もあれば、地底から分離した氷の破片でできているという説もあった。
それから、環と環の境目は、衛星が蹴散らした物質を、ちょうど羊飼いの犬たちが羊の群れが散らばらないようにその周囲を走り回るように、両端に凝集しながら回転する航跡になっている、と書いてあるものもあった。
環束が発見され、後年、それがひとつひとつもっとずっと細い外輪に分かれていると証明されたことも、それから、車輪のリムのように分布するぼんやりとした縞模様が発見され、後になってそれが氷の雲であると判明したことも、彼は読んで知っていた。
しかしそうした新しい情報によって土星の本質的な姿が否定されることはない。
それは、一六七六年に自分の名前を冠した環と環の空隙を発見したジャン・ドメニコ・カッシー二がはじめて眼にした姿と変わらないのである。
この機会に、勤勉なグリーンフィールド・クラブロス氏が百科事典や手引き書をあれこれあたったのはもちろんである。
土星はいつみても新鮮な対象で、彼の前に姿を現わす度に、最初に発見したときの驚きを改めて感じさせる。
そしてガリレオがあの焦点の合わない望遠鏡で、土星が三重の天体なのか二個の輪を有する球体なのか、何とも曖昧な考えにしか辿り着けなかったことや、ようやく土星の正体に迫ったときには視力を失ない、すべてが闇の底に沈んでしまったことを悔やむ気持ちがよみがえってくる。
発光体を長時間みつめすぎると目が疲れてくる。
グリーンフィールド・クラブロス氏は目を瞑る。
そして木星に目を移す。
木星は、その堂々とした、だが決して重苦しさを感じさせない大きさの中、赤道部に走るレース編みの飾りのついたショールのような、明るい緑色をした二本の縞を誇らしげに見せつける。
巨大な磁気嵐の跡が、綿密に構成された穏やかで整然とした一枚の絵に変わる。
しかしこの豪華な惑星の真の華麗さは、今、一本の斜線に沿って、輝く宝石をちりばめた王の笏のように四つ揃って並んでいるのが見える、あの光り輝く衛星にある。
ガリレオによって発見され、彼によって《メディチ家の星》と命名され、その少し後、あるオランダの天文学者によってオヴィディウスに因んで、新たにイオ、エウロペ、ガニメデ、カリストと名付けられた木星の衛星は、まさに自分たちの発見者の手によって宇宙の不動の秩序が崩壊したことなど預かり知らぬかのごとく、ルネサンスのネオ・プラトニズム最後の輝きを放っているように見える。
古典美への夢が木星をつつみこむ。
その姿を望遠鏡でみつめながら、グリーンフィールド・クラブロス氏はオリュンボスの変身を待ち望んでいる。
しかし彼にはその姿を鮮明なまま維持することができない。
一瞬、目を細めて、まぶしさにくらんだ瞳がふたたび輪郭や色や陰影を正確にとらえるようになるのを待たなければならない。
ただ同時に、想像力が借物の装いを脱ぎすて、書物から得た知識をひけらかすのを諦めるようになるまで待たなければならない。
もし想像力がほんとうに視力の弱さを助けるものなら、それは、視線によって点火されるような、即効性のある直接的なものであるはずだ。
ではどれが最初に彼の脳裏に浮かんで、そぐわないからという理由で脳裏からふりはらわれた比喩だったのだろうか。
さっき彼が居並ぶ衛星を引き連れてゆれる木星を見たときは、縞模様のある、まるまると太った深海魚が冷たい光を放ち、その鯉からちいさな気泡が昇っているように……
次の晩、グリーンフィールド・クラブロス氏はまたテラスに出て、肉眼で惑星を見直してみる。
大きな違いは、ここでは、惑星と暗闇の至る所に点在する残りの星空と、そしてそれを眺める自分との大きさを考慮に入れねばならない点である。
関係がレンズで遠くにとらえられた惑星という客体と彼という主体の間の、差し向かいの幻覚の中でのことなら、起こりえないことである。
同時に彼は、ひとつひとつの惑星について昨日の晩に見た細部にわたる姿を思い浮かべ、その姿を夜空に穿つぼんやりとした光のしみに接ぎ合わせてみる。
そうしてほんとうに惑星が自分のものになることを願うのである。
それが叶わないのなら、せめて惑星のどれか一つでも、自分の片方の眼の中に飛び込んできてくれたらいいのにと思っている。